カテゴリー: 法話(令和元年)

2月のお便り

今月の言葉

光明はあまねく十方世界の念仏の衆生を照らし摂取せっしゅして捨てたまはず

摂益文しょうやくもん(『観無量寿経』)

 

【経文解釈:「南無阿弥陀仏」を称える人がいれば、そこに阿弥陀仏の光明が届かないということはありません。むしろ阿弥陀仏の光明は、たった今も私たちを照らしていることに気づき、その歓びの中に生きるのが念仏者でありましょう。】

「福田寺だより」平成31年2月第57号(PDFファイル)

 

“法然上人追慕”

春の背中が見えてきたとはいえ、もうしばらく寒い日が続きそうです。インフルエンザも猛威を振るっていますので体調管理の徹底を心掛けたいものです。

さて、先月24日は恒例の「法然上人追慕念仏行脚」に参加しました。夕刻に太秦西光寺を出発し、2か寺に立ち寄った後、長岡京光明寺(西山浄土宗総本山)にて追慕法要を行いました。浄土宗西山三派、浄土宗、そして時宗の5教団の僧侶が集まり、一般参加者を含め約150名を超える行列が約16キロ、5時間半の行程を満行しました。普段交流の少ない他の念仏宗派の方々、檀信徒の方とお会いでき、脈々と受け継がれる法門の有難さを改めて感じました。ただ、運動不足がたたって体はボロボロでしたが…。

そもそも追慕念仏行脚は「嘉禄の法難」という事件を契機にしています。嘉禄三年(1227年)、念仏門の流行を快く思わない比叡山の衆徒が、東山に埋葬されていた法然上人のご遺骸を掘り起こし鴨川に流してしまう計画を立てました。法然上人のお弟子たちは、先んじて法然上人の石棺を持ち出し、二尊院(嵯峨)、そして西光寺(太秦)、最終的に光明寺(長岡京粟生)へと運び、荼毘に付して埋葬されました。この事件に因み、毎年1月24日のお逮夜(御命日の前夜)に法然上人追慕の為に念仏行脚を営むようになったということです。

さて法然上人と時衆の宗祖一遍上人は時代が100年ほど違うので直接関係があったわけではありません。しかし、一遍上人の教えは間違いなく法然上人の教えからの展開です。一遍上人の師匠は聖達上人であり、その聖達上人の師匠は証空上人(西山上人)だからです。この証空上人こそ法然上人一番の高弟であり、現在の浄土宗西山派の派祖でもあります。証空上人の教えは「他力」をより強調する特徴があります。念仏の教えのみが往生の道であることを示され、領解りょうげ(疑いの全くない信心を得ること)の重要性を説かれました。そして、一遍上人はさらなる展開として、信心を超越した「南無阿弥陀仏」の六字名号への帰依を説かれたのです。

少しややこしくはありますが、京都には永観堂、誓願寺をはじめ、浄土宗西山派の寺院も多いので、寺院に参られる際に注目されてはいかがでしょうか。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日11時30分…副住職結婚式

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

1月のお便り

今月の言葉

「それ生死に七種の用心あり」

『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:生と死についての心構えには七種類ある。一息生死から一期生死までのそれである】

「福田寺だより」平成31年1月第56号(PDFファイル)

 

“一息生死”

明けましておめでとうございます。お年始のご挨拶を申し上げますとともに、謹んで檀信徒の皆様の平安を御祈念いたします。新元号に変わるこの一年は、何か新たなスタートを切るのにふさわしい予感がします。

私も恐縮ですが、この度良縁に結ばれまして、結婚式を4月13日に執り行うこととなりました。まだお伝えできていないお檀家様もいらっしゃいますので、改めてこのお便りでご報告させていただきます。

 

さて、新年が始まったわけですが、12月31日には一年の終わりが来ます。ずいぶんと気が早い話ですがご容赦ください。当然、一年であれ、一か月であれ、期間を区切れば必ず始まりと終わりがあります。一遍上人は七種の始まりと終わり(生と死)を説かれました。つまり生と死についての心構えです。

一期いちご(一生)」「一年」「一月ひとつき」「一日」「一時いっとき」「一念」「一息」というように期間を区切り、「一息」には吐く息(生)、吸う息(死)があり、「一念」は念仏の始めと終わりをそれぞれ生死であると考えます。だんだん期間が伸びていき最後は「一生」へと行きつきます。「一日一生」でもあり、「一年一生」でもあります。一遍上人は生と死というものを「一期」に限らず、刻々と過ぎる“今”その瞬間に感じなければならないとおっしゃられたのです。長く感じる生涯も、“今”が連続してやってくる、だからこそ今というひと時を、念仏を通して懸命に過ごすことが大切なのです。臨終間際の念仏ではなく、日ごろからの“平生へいぜい念仏”を強調されているのは、この心構えからも理解できます。

『阿弥陀経』には「聞説阿弥陀仏もんぜつあみだぶつ 執持名号しゅうじみょうごう 若一日にゃくいちにち 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不乱」とあり、一日ないし七日間、念仏を称えれば、ご来迎があり極楽往生が叶うとあります。この七日間を先ほどの七種の生死と考えると、お経も身近に考えていただけるのではないでしょうか。

本年も檀信徒の皆様とともに、念仏への感謝をもって過ごしたいと存じます。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日11時30分…副住職結婚式

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

12月のお便り

今月の言葉

「一向に称名し  善悪を説かず  善悪を行ぜず」

『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:私たちは、比較でモノの価値をはかる相対の世界に生きているので、心は常に定まっておらず、善悪・正しさの判断もままならないものである。よって人の行為について善であるとか悪であるか決めつけるのではなく、仏様の教えに照らし合わせ、自らを省みることが 肝要である。】

「福田寺だより」平成30年12月第55号(PDFファイル)

 

“中道の姿”

一年はあっという間で、年の瀬もいよいよ押し迫ってきました。皆様がよいお年を迎えられるよう祈念申し上げます。

さて、お釈迦様の誕生日を祝う 4 月 8 日の「降誕会ごうたんえ」、ご命日を偲ぶ2 月 15 日の「涅槃会」を以前ご紹介しましたが、仏教の三大法会としてはもう一つ「成道会じょうどうえ」という行事があります。毎年 12 月 8 日がその日に当たり、「成道」=お釈迦様がさとりを開かれた日を記念して法要が行われます。

お釈迦様がさとりを得られたのは 35 歳のとき、6年間に及ぶ苦行(断食など)が正しい道ではないと気づかれたのがきっかけでした。苦行を離れ静かに菩提樹の下で瞑想にふけり、ついに世界の真理をさとら れました。

さとりの内容は諸説ありますが、「縁起」と「中道」がその核心であるといえます。縁起とは“すべての存在は互いに影響しあっている”、 “物事の結果には必ず原因がある”という真理です。
中道とは一般的に“縁起を知り、物事の両極端に偏らない”と解され、 「八正道」という 8 つの正しい方法を実践すれば中道を体現できると されています。しかし実際のところ、私たちは日常生活に追われ、煩悩 に振り回され八正道どころではありません。出家であれ在家であれ仏教徒には様々な生活規範がありますが、それを守りようがないのも現実です。また、そのような私たちに“正しさ”を判断することができるでしょうか。一遍上人は「善悪は説かず」とおっしゃいます。そうとは言え、 仏法をないがしろにして利己主義に陥れば、共生の道は閉ざされ、人類の存続すら危ういことは明白です。

だからこそ「中道」が大事なのだと思います。それは仏様の教えを実践しようと心に留めておくことです。実際には先ほど申したように、努力をしても教えを完璧に守ることは難しいでしょう。厳格に守ることに固執するのではなく、「仏様の世界」と「世俗の世界」、この二つの世界は違うけれどもかけ離れていないのだと理解し、生きる姿が中道ではないかと思います。

有難いことに、折に触れてお檀家様から「毎月、お便りを楽しみにしています」「月に1度仏教に触れることができて勉強になる」とおっしゃっていただけます。何よりも励ましになりますし、その仏教に臨む姿こそが「中道」を実践されているようにも感じられます。

合掌

11月のお便り

今月の言葉

もっぱら慈悲心をおこして 他人のうれいを忘れることなかれ」

一遍上人『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:慈悲の心(他人の苦しみを和らげ、福楽を与える心)を常に持ちなさい。他人の悲哀の気持ちを理解して、忘れてはならない。】

「福田寺だより」平成30年11月 第54号(PDFファイル)

 

“お砂持ち”

 

朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。もう冬の足音が聞こえているようです。

先月14日に福井県敦賀市氣比けひ神宮において時宗青年会主催の「全国大会」という法要が行われました。本法要は2年に一度、全国の有縁の寺社で営まれ、総本山遊行寺より遊行ゆぎょう上人一行を拝請します。私も全国青年会の現執行部に所属しており、迎える側として氣比神宮を訪れました。

全国大会の様子

今回氣比神宮が大会の会場に選ばれたのには理由があります。それは二祖真教上人七百年御遠忌との関連です。真教上人は福井県を重要な布教の地として何度も訪問されており、この氣比神宮では、人々を難渋させていたぬかるんだ参道を、自ら土砂を運び整備されたという逸話が残っています。現在でも遊行上人が法灯を相続されるとき必ず氣比神宮で「遊行のお砂持ち」の神事が行われることからもその関係の深さがうかがえます。

この氣比神宮には松尾芭蕉も訪れており、真教上人の逸話を聞き次の和歌を残しています。

月清し 遊行のもてる 砂の上

(遊行上人が運んだという砂に月明かりがきらめき清々しい)

 真教上人をはじめとする時衆が砂浜を運び整備し始めると、周囲の人々もこぞって集まり、身分・職業を問わずこの一大事業に臨んだと『遊行上人縁起絵』には書かれています。これは現代でいうところのボランティア活動といえるかもしれません。しかも、整地だけではなく神社内を清掃し、砂や玉石を敷き詰めたことで境内が鏡のように輝いたと伝えられています。芭蕉が詠んだ「清し」という言葉は「清々しく美しい」という意味のほかに「神聖である」という意味もあります。

聖地を守った人々の努力の結晶は、700年以上たった今もなお輝いているのです。

合掌

(副住職:髙垣浩然)

遊行上人一行

10月のお便り

今月の言葉

「熊野の本地ほんじ弥陀みだなり。和光同塵わこうどうじんして念仏をすゝめたまはんが為に神と現じ給ふなり。」

一遍上人『一遍上人語録』

 

“神様仏様”

 

紅葉が待ち遠しい季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

10月は神無月かんなづきともいい、出雲大社に全国の神々が集うので神様のいない(無)月であると広く知られています。ただし、この語源は俗説のようで、水無月みなづき(6月)=水の月と同様に、神無月は神の月(神事が多い)を表しているというのが有力だそうです。

さて、神様と仏様は、それぞれ神社とお寺に祀られていますが、必ずしも関係がないとは言えません。神々の中には仏教の中に取り込まれ、仏教の守護神として存在するものもあります。名前の後に「天」がつく、例えば帝釈たいしゃく天、毘沙門びしゃもん天、韋駄いだ天、弁財天などを挙げることができ、多くはインドの神々です。また、本地垂迹ほんじすいじゃくという考え方から、日本の神々は仏様の化身(権現ごんげん)であるとも捉えられました。仏様の姿のままでは人々に近づきがたいので、人の姿に近い神様の姿で仮に現れ、仏法を広めると考えられたからです。熊野権現や八幡神は阿弥陀如来の化身であるといわれます。

一遍上人も全国を遊行される中で、各地の神社にも参詣されています。そして、一遍上人が成道された地は熊野本宮大社証誠しょうじょう殿であり、きっかけは熊野権現の神託によるものでした。この証誠殿の「証誠」とは阿弥陀経に出てくる言葉で「間違いないと証明する」という意味があります。阿弥陀経では東南西北上下の世界の数えきれない仏様が、阿弥陀仏の教え、お念仏の偉大さを讃嘆し証明されるのです。

ですから、一遍上人も仏様、神様と分け隔てして考えることはなく、本地垂迹として、すべての神々が阿弥陀仏の教えを広めてくださっている存在だと考え、尊崇の念をもたれていたのです。

念仏の教えは無碍むげ(何ものも障りにはならない)であることが改めて感じられます。

合掌

(副住職:髙垣浩然)