縁起・歴史

福田寺は山号を東岡山とうこうさんといい、文永9年(1272)、鎌倉幕府6代将軍・一品宗尊いっぽんむねたか親王(後嵯峨天皇の皇子)により創建されました。
京都東山の渋谷しぶたににあったので渋谷道場、滑谷しるたに道場(汁谷道場)とも呼ばれました。
創建後まもなく、京都に遊行された一遍上人の御化益により、時宗に改宗したと伝わります。
そして、豊国神社の造営に際し、東山渋谷から高倉万寿寺(現在、福田寺町)へ移った後、現在地へ移転しました。
寛文年間(1661-1673)には、「乳房ちぶさ地蔵尊」が祀られる道場として、「洛陽四十八所地蔵霊場」のひとつに指定されました。「洛陽四十八所地蔵霊場」とは、霊元天皇の命で僧・宝山が指定した48ヶ寺を指します。
現在の本堂・山門は江戸期のものです。

福田寺
福田寺

皇族の出家者が住職を務めた門跡寺院の証しである筋塀。3本の定規筋が入っているものは京都でも非常に珍しい。

御本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)です。
阿弥陀如来像は、恵信僧都作、安阿弥(快慶)作等と伝わり、鎌倉期の優作と評されます。上半身は三尺阿弥陀には珍しく覆肩衣(内側の衣)を着けず、衲衣(袈裟)のみです。両脇侍は江戸期の作です。
また、宗尊親王が自ら彫られたと伝わる乳房地蔵菩薩像が本堂内に安置されています。

阿弥陀三尊
阿弥陀三尊

乳房地蔵尊

本堂内には乳房ちぶさ地蔵菩薩像が安置されています。
この地蔵尊は宗尊親王が自ら彫られたものと伝わり、お乳の出が良くなる・お乳の病を癒す等、乳房守護の御利益から「洛陽四十八所地蔵霊場」の第44番札所にも指定され、多くの人々から信仰されてきました。
また、この地蔵菩薩像はいつ頃からか行方が分からなくなっていましたが、明治時代のはじめに「髙島屋」創立者の初代・飯田新七が夢想し地蔵尊を発見、当山に奉納しました。

霊元天皇の御詠歌
嬰児みどりごをわきて 恵みのいちしるき 乳房の求め かなわぬはなし」(この地蔵尊は赤ん坊に特に恩恵がいちじるしい。乳を求めれば必ず叶う。)

乳房地蔵尊

年中行事

1月1日 修正会
4月8日 釈尊降誕会(花まつり)
3月22日 春の彼岸施餓鬼法要(午後2時)
7・8月 盂蘭盆会棚経
9月22日 秋の彼岸施餓鬼法要(午後2時)

時宗とは

時宗は、一遍上人を宗祖、真教上人を二祖として仰ぎ、両祖師のみ教えを基に、
名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころにする浄土門の一流です。

一遍上人
名称 時宗じしゅう
宗祖 證誠大師しょうじょうだいし  一遍上人(智真)
二祖 他阿弥陀仏たあみだぶつ(他阿) 真教上人
開宗 文永11年(1274)
総本山 清浄光寺しょうじょうこうじ(通称:遊行寺ゆぎょうじ)- 神奈川県藤沢市
本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)
所依経論
(お経)
浄土三部経(「無量寿経」・「観無量寿経」・「阿弥陀経」)をより所にします。読経ではそのほか「六時礼讃」などもお読みします。

時宗の由来

一遍上人も真教上人も教団に所属している僧尼を「時衆」と呼んでいます。
これは浄土教の祖師である善導大師が自らの門弟を「時衆」と呼んだことに由来します。

一日24時間を4時間ごとに分割した勤行(六時礼讃)や不断念仏などの法要を一定期間行うときには、時間で僧尼を交代させる必要があり、交代要員の人数と時間は定められていました。その要員が「時衆」です。

「時衆」は本来個々の僧尼を示す言葉ですが、他教団が使わなくなり、一遍上人を宗祖とする「時衆」だけが使用するようになり、教団の名称として通用するようになりました。

江戸時代に入ると「衆」が「宗」に代わり、「時宗」が宗派の名として確定されます。

そのため、一遍上人を宗祖とする僧尼衆を表すときに、江戸時代より前の場合は「時衆」、江戸時代以降の場合は「時宗」と呼ぶ慣わしがあります。

また、時宗の「時」は『阿弥陀経』の説示である「臨命終時」に拠るとする教説もあります。一遍上人は臨終のお念仏を強調されましたが、これは単に命が尽きる時という意味ではありません。臨終は即ち平生であり、平生は即ち臨終です。つまり、生涯を終えるまで連続する“ただ今”を常に臨終の時と心得て、念仏するのが大事だとおっしゃられたのです。

一遍上人

更に詳しく知る→「時宗」公式ホームページ

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