今月の言葉
「熊野の本地は弥陀なり。和光同塵して念仏をすゝめ給はんが為に神と現じ給ふなり。」
一遍上人『一遍上人語録』
“神様仏様”
紅葉が待ち遠しい季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
10月は神無月ともいい、出雲大社に全国の神々が集うので神様のいない(無)月であると広く知られています。ただし、この語源は俗説のようで、水無月(6月)=水の月と同様に、神無月は神の月(神事が多い)を表しているというのが有力だそうです。
さて、神様と仏様は、それぞれ神社とお寺に祀られていますが、必ずしも関係がないとは言えません。神々の中には仏教の中に取り込まれ、仏教の守護神として存在するものもあります。名前の後に「天」がつく、例えば帝釈天、毘沙門天、韋駄天、弁財天などを挙げることができ、多くはインドの神々です。また、本地垂迹という考え方から、日本の神々は仏様の化身(権現)であるとも捉えられました。仏様の姿のままでは人々に近づきがたいので、人の姿に近い神様の姿で仮に現れ、仏法を広めると考えられたからです。熊野権現や八幡神は阿弥陀如来の化身であるといわれます。
一遍上人も全国を遊行される中で、各地の神社にも参詣されています。そして、一遍上人が成道された地は熊野本宮大社証誠殿であり、きっかけは熊野権現の神託によるものでした。この証誠殿の「証誠」とは阿弥陀経に出てくる言葉で「間違いないと証明する」という意味があります。阿弥陀経では東南西北上下の世界の数えきれない仏様が、阿弥陀仏の教え、お念仏の偉大さを讃嘆し証明されるのです。
ですから、一遍上人も仏様、神様と分け隔てして考えることはなく、本地垂迹として、すべての神々が阿弥陀仏の教えを広めてくださっている存在だと考え、尊崇の念をもたれていたのです。
念仏の教えは無碍(何ものも障りにはならない)であることが改めて感じられます。
合掌
(副住職:髙垣浩然)