過去の法話

平成30年9月 【捨聖一遍】

苦をいとふといふは、苦楽共に厭捨するなり」―『一遍上人語録』

(解釈「苦」を離れたければ、「楽」を求めてはいけない。むしろ苦楽を共に捨てることこそが真の「楽」に通じる。優劣、善悪、智や愚についても同様のことが言える。人間世界は表裏一体、二元世界であることを忘れてはならない。

厳しい残暑が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

今月はお彼岸の法要が営まれます。お彼岸は秋分の日を中日とする7日間を指し、文字通り「彼岸」(悟りの世界)を目指すとともに、あの世におられるご先祖様を偲ぶ行事とされます。

さて、彼岸の反対は此岸=この世、迷いの世であり、「苦楽」でいえばこの世は「苦」、悟りの世界は「楽」であるとしばしば考えられます。ですから、悟りの「楽」を手に入れるには「苦」を捨てれば良いと思われがちですが、一遍上人は「苦から離れたければ、苦と共に楽も捨てなさい。苦は捨てやすいが、楽は捨てがたいからである」と説かれます。「苦あれば楽あり」と言うように「苦」と「楽」は表裏一体で実体がないので、永久不変の「苦」や「楽」はありません。「苦」が止んだ瞬間が「楽」の始まりで、逆もしかりということです。

私たちは誰でも「苦」を嫌い、「楽」を求めますが、手に入れた「楽」も結局は「苦」に変わる、「苦」の一面に過ぎないわけです。この苦楽に翻弄されることこそが迷いの根底にあるのかもしれません。

もちろんこの苦楽の感情は人にとって正常な思考であることは間違いありません。「苦」も「楽」もよほどに大きくならなければ問題にならないことも多々あります。

一般的な苦楽とは全く違う、永久に変わらない真実の「楽」を求めるのであれば、一遍上人の仰るように苦楽の二元対立を離れる必要があるのです。そのためには苦楽を共に捨てなければなりません。そのためにまず「楽」を捨てよとも説かれているのです。「苦」を捨てるのは簡単ですが、「楽」を捨てることは難しいからです。この一時のはかない「楽」を捨てることができれば、「苦」も捨てることができ、あらゆる物事を相対的に見てしまう人間の弱さから離れることができるのでしょう。
まさに「捨聖」と尊称された一遍上人の相対を離れた姿勢がうかがえます。

合掌

平成30年8月 【お盆のお経】

智恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄を恐るる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて」―『一遍上人語録』

(解釈「苦」を離れたければ、「楽」を求めてはいけない。むしろ苦楽を共に捨てることこそが真の「楽」に通じる。優劣、善悪、智や愚についても同様のことが言える。人間世界は表裏一体、二元世界であることを忘れてはならない。

お盆と言えば「棚経」が風物詩ではないでしょうか。「精霊棚」の前でお経をあげることから棚経と呼ばれており、そのお経は普段とは少し違います。少しご紹介いたします。
若人欲了知  三世一切仏
応観法界性  一切唯心造
(意訳:もしあらゆる仏の心を知りたいと思うなら、“この世の全ては心が造りだしている”という真理を観察すべきである)
他宗派でも読まれることの多いこの一節は「破地獄偈」とも呼ばれます。読み方が仏教語に多い漢音ではなく呉音で読むことも特徴です。(にゃく→じゃく、にん→じん)
「地獄を破る偈文」とあるように、“この世の全ては心が造りだしている”と理解できれば地獄を恐れたり極楽をねがったりすることはありません。また善悪や美醜、優劣も心の表れにすぎず、それらに関して迷い悩み、苦しみを増やす必要はないのです。宗祖一遍上人が「捨ててこそ」と示された心は、私たちがついついやってしまいがちな迷いの心、区別の心と言えるでしょう。

合掌

平成30年7月 【仏教の真髄】 

善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。」―『法句経』(中村元 訳)

(解釈善と悪があれば、人間は悪に心が傾きがちである。すぐにでも悪行を遠ざける努力をし、その心の平常に努めなければならない。

お陰様をもちまして今月のお便りで第50号となりました。様々な仏話や教えを紹介しましたがその全てに通じる偈文を紹介したいと思います。それが「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」です。

諸悪莫作(しょあくまくさ)  – 諸々の悪行をすることなく

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)  –  善行を心がけて

自浄其意(じじょうごい) –  自分で自分の心を浄めること

是諸仏教(ぜしょぶっきょう) –  これこそ全ての仏が説く教えである

七仏とは、お釈迦様の他にもその過去において6人の仏様がいたと考える思想です。覚られた真理の絶対性から、過去にも未来にも仏様が存在するはずだと考えられ生まれました。ちなみに、未来の仏様は弥勒菩薩(現在は修行中)とされています。

さて、この七仏の共通の教えとされているのが「七仏通誡偈」です。大変簡潔な文言のため次のような逸話も残っています。

ある時、唐の詩人・白居易が禅僧・鳥窠道林に「仏教の真髄とは何か」と尋ねると、この偈文の前半を示されました。白居易は「そんなことは3歳の子供でも分かるではないか」と言いましたが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でも実行は難しい」と返され、謝ったといいます。

このエピソードは、“頭で理解し口にするのは簡単であるが、実行に移すのは難しい”ということを表しています。だからこそ、第3の偈で「自浄其意」、自らの心を清める努力をし、行動に移すようにとの教えがあるのだと思います。

説かれる「善悪」の判断も簡単ではありませんが、「自利利他(自分の利益(りやく)と他人の利益になることをする)」の精神を常に持ち、日頃より仏様の教えに触れたり、思い起こしたりすることが重要なのだと思います。 合掌

 

平成30年6月 【5つの戒め】 

「わたしの死後は、わたしの説いた法と戒とが汝たちの師となる」-『大パリニッバーナ経』

(解釈:〈入滅に際して〉私が死んだとしても、嘆いてはいけない。私の死後は、私の説いた教えと、持戒の心こそがあなた方の師となるだろう。)

梅雨の季節となりました。気象の変化が大きいこの時期は「気象病」といって、「自律神経」の乱れから体調不良になる方が少なくないそうです。くれぐれもご自愛くださればと思います。

さて、仏教教団成立の頃、僧侶たちは雨期になると精舎(僧院)にこもり、なるべく外出をせず修行に励むという習慣がありました。これを「雨安居」と呼びます。雨期には草木が生い茂り、虫などが活発に活動するため、誤って踏み潰してしまうのを防ぐ目的がありました。いわゆる五戒の一つ、「不殺生戒」を守るためです。

お釈迦さまは、信者のために五戒を制定されました。

➀不殺生戒 ➁不偸盗戒 ➂不邪淫戒 ➃不妄語戒 ➄不飲酒戒

(殺すな、盗むな、淫らな事をするな、嘘をつくな、酒を飲むな)です。

植物や動物の命を食べなければ生きられない者に、五戒を守ることが困難な者に、どうせ守れないと思う者に、「日々、殺し、盗み、淫らな事をし、嘘をつき、酒を飲み」 暮らしていたらどうなるであろう。と考えさせられました。そして、5つの戒めを示され、自発的に守るように心掛け、日々暮らすことを勧められました。そうすれば、それらの者も 悪をなすこと少なく、善をなすこと多くなるであろうと。

あくまで五戒は、規範という側面が重要視されました。つまり、意図的に罪を犯さないようにすることが大事なのであり、守れずとも罰則は定めず、自身の心の中で反省することを求められたのです。

戒を破ってもその罪を認め、反省するならば、仏教徒としてやり直すことは否定されません。お釈迦様は誰しもが失敗し、過ちを犯すことを分かっておられました。恐れるべきは、過ちを犯すことではなく、過ちを反省しない心だと示されたといえます。   合掌

 

平成30年5月 【5つの戒め】 

となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏」-『一遍上人語録』

(解釈:仏様と私たちをつなぐ名号「南無阿弥陀仏」を称えるとき、そこには「救う仏」・「救われる凡夫」も存在しない。この世とあの世をつなぐものもまた「南無阿弥陀仏」である。)

「福田寺だより」は今月で48号になります。48という数字を聞いてピンと来られる方はかなり仏教通と言えるかもしれません。相撲の四十八手、平仮名の48種、AKB48グループなどなど、48に関するものはたくさんありますが、仏教で最も大切な48が阿弥陀如来の誓願「四十八願」です。

阿弥陀如来がまだ修行中で法蔵菩薩と呼ばれていた頃、覚りを目指すと同時に、苦しむ世の人々を救いたいと考えられ、誓われたのが48種にも及ぶこの誓願です。一つ一つの誓いの最後に、強い意志を込めて「もし、かなわなければ、覚りを得ることはない」という一言を付けられているところに特徴があります。

さて、その中の「念仏往生願」とも呼ばれる18番目の誓願は特別に重要なものです。

「私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、私は決して覚りを開きません」(意訳)

そして今、法蔵菩薩は覚りを開き、阿弥陀如来となられているということは、つまりこの誓願を果たされているということになるので、私たちの極楽往生も確約されていることになるのです。 この一節の重要性を理解された祖師方がそれまでの難しい修行からより実践しやすい「称名念仏」を説いて、凡夫である私たちに救いの道を示してくださいました。

ところで、浄土教と言えば極楽往生による死後の「救い」といったイメージがあるかもしれませんが、実は『一遍上人語録』に「救い」という言葉は1度しか出てきません。おそらく「救い」という言葉では「救う側」・「救われる側」の二極に分かれてしまうからだと考えられます。以前も申しましたとおり、仏教の根本は「無分別」であり、“分けない”、“比べない”を旨としています。覚られている仏様と凡夫である私たちをつなぐお念仏を申すとき、両者の隔たりはなくなります。そのことに喜びと感謝をもって生きることこそが、一遍上人の理想とされた生き方なのです。  合掌

 

平成30年4月 【信じるということ】 

「信といふは、まかすとよむなり」-『一遍上人語録』

(解釈:「信じる」ということは「任す」ということです。私たちが任せる相手は他者の心であり、他者とは仏法、阿弥陀仏、他力のことを指しています。天運に任せきることを信じるというのです。)

宗教においては、「信じる者は救われる」、「鰯の頭も信心から 」といったように、「信じる」という言葉がしばしば言及されます。

時宗を含めた浄土門では名号「南無阿弥陀仏」をお称えしますが、この「南無」とは“帰依します”、“信じます”という意味です。ここでいう「南無=信じる」とは、絶対的な信服の表明であり、少しも疑わないことを指しています。ですから、信じる相手と言うのは全てを任すことができる存在、間違いのない存在でなければいけません。私たちが普段「友人を信じる」「無実を信じる」といったように使う時とはニュアンスが少し異なるかとも思います。

さて、一遍上人は「信じていても信じていなくてもお念仏を申せば極楽浄土に往生できる」と説かれたことから、しばしば一遍上人は「信心」を全否定されていると評されることがありますが、そうではありません。一遍上人が否定されているのは自力の信心、つまり“自分はこれだけ信じているから救われるはずだ”というような考え方です。むしろどちらかといえば、自分には信仰心や仏道修行の心がなかなか起こらないから阿弥陀仏の本願に頼むしかない、お任せするしかないという気持ちが信心なのです。ですから、一遍上人は「信じる」とは「任せる」ことだと表現されたのです。

ところで、科学技術の発展した現代社会は目に見えないものや、原理の分からないものを信用しない傾向があるように思います。と同時に様々な情報があふれ、何を信じていいかもわからないような世の中でもあります。また近年宗教心、信仰心が薄れているとも言われます。信仰とは、非科学的なものを妄信することなどではなく、人間は間違いを犯しうるという謙虚さを忘れず、絶対的な存在に心を任せるということではないでしょうか。その存在が、阿弥陀仏であり、仏法(仏様の教え)であると一遍上人は説かれています。「人間万事塞翁が馬」とはいいますが、日ごろ価値判断にとらわれ、喜びや憂い、幸せや不幸せ、楽や苦にコロコロと翻弄される私たちも、仏様に手をあわせ、その絶対性(大いなる平等)に触れるとき、とらわれのない心が生まれるのではないでしょうか。  合掌

 

平成30年3月 【無常の別れ】 

「地獄鬼畜のくるしみは いとへども又受やすし」-『一遍上人語録』

(解釈:この現世に生きていると、地獄や餓鬼、畜生の世界とも思われるような苦しいことが降りかかる。どんなに望まくとも、願わなくともその苦しみはやってくるからこそ、私たちはその苦しみを乗り越えなければならない。)

卒業、転職、転勤など「別れ」が多いのがこの季節。

恋人や家族、友人など、愛する人との別れは本当につらいものです。距離が遠くなってしまうだけ、というならまだましですが、死別であればその心を癒すにはどれほどの時間がかかるか分かりません。まさに「地獄鬼畜の苦しみ」でしょう。そのような別れの苦しみを仏教では「愛別離苦(あいべつりく)」と申します。

かつてお釈迦様が在世の頃、キサー・ゴ―タミーという女性がいました。ゴータミーは幼い子供を亡くした激しい悲しみで錯乱してしまい、生き返らせる方法を探すために、遺体を抱えたまま町をさまよい歩いていました。縁あってお釈迦様のもとを訪れたゴータミーは、生き返らせてほしいと懇願します。すると、お釈迦様はこれを了承し、その方法を次のように示されました。

「ゴータミーよ、町の家々を回ってケシの実を貰ってきなさい。ただし死人を出した家を除くこと。」

とても簡単な指示にゴータミーは喜び、町の家々を駆け回りますが、死人を出していない家を見つけることはできませんでした。「昨年親を亡くしています」、「妻に先立たれてしまって…」、「うちも子供を亡くしたばかりです」というような話を聞いたことでしょう。そのうちにゴータミーは、身内の死に悲しんでいるのは自分だけでないこと、そして、どんなに愛する者でもいつかは別れがやってくることを悟りました。ゴータミーは、お釈迦様の言葉の真意――子供の“死”と向き合うこと、そして自分自身の“生”と向き合うこと――を理解し、その後仏門に入ったということです。

ゴータミーのような状況においては、誰しも頭の整理がつかず、自暴自棄や無気力になることがほとんどでしょう。ですがそれははたしてお浄土に先立った故人が願う姿でしょうか。ゴータミーのように前を向き、生死に向き合う姿勢をお釈迦様は勧められているのだと思います。人によって癒える時間は変わるでしょうが、悲しみをこらえ、別れた人を偲ぶことで「愛別離苦」を乗り越え、前向きな歩みを踏み出せるのではないでしょうか。  合掌

 

平成30年2月 【鬼の正体】 

「物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる」-『一遍上人語録』

(解釈:必要以上に物を欲しがる心は、餓鬼という「ものをむさぼる鬼」の世界に堕ちたのと同じことである。)

毎年節分の様子をテレビのニュースで見かけますが、泣き叫ぶ子供たちに豆を投げられた挙句、突進や蹴りを入れられる鬼は何となく不憫な気がしてなりません……。

さて、節分とは季節の分かれ目、特に立春の前日を指し、一般的には豆(煎った大豆)をまき、年齢の数だけ豆を食べて厄除けをするという習慣が全国的に多いようです。豆まきでは豆で鬼を退治する様子が多く見られますが、その由来をご存じでしょうか。

実は季節の移り変わりには邪気(鬼)が発生すると考えられており、その厄払いに豆をまくというのが定説で、豆を使用するのは「魔(ま)を滅(め)す」という語呂からきているそうです。

伝統行事や慣習は、仏教や神道、中国の儒教や道教などが混ざり合っていることが多いので一つの正解はないかもしれませんが、仏教的な考え方をすれば節分にはどのような意味があるのでしょうか。

以前このお便りの中で「餓鬼の心」についてお話させていただきましたが、追い払われる鬼も私たちの外にいるものではなく、内にいるもの=“人間の心”であると考えてみてください。つまり悪い鬼というのは人間の弱い心そのものであると捉えるのです。人間の弱い心は「煩悩」とも言えますが、その代表が「貪欲(とんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚癡(ぐち)」の「三毒」です。それぞれ「むさぼり欲しがること」、「怒り憎しむこと」、「真実に暗いこと」を意味しています。赤鬼・青鬼・黒鬼というのはこの三毒を色で表していると言われます。

この心に住む鬼を豆で追い払おうというのが節分追儺式なのです。恐れられたり、敵視されたり、悪の代表格のような鬼が実は自分の弱い心であったのだと考えると、またひと味違う節分を迎えられるのではないでしょうか。

最後に、以前どこかで目にした法語をご紹介します。

“ ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で ”   合掌

 

平成30年1月 【財宝は毒蛇?】 

「財宝は煩悩の所依 心又欲のみなもとなり」-『他阿上人法語』

(解釈:財宝は煩悩が拠り所にし、住処としている。そして心もまた欲望の根源である。人は一歩間違えれば財宝によって煩悩に振り回され、欲望によって心を蝕まれてしまうのだ。)

時宗総本山護持会が発行している「時宗 月訓カレンダー」をご存知でしょうか。このカレンダーには「偉人の名言」が月ごとに揮毫(きごう)されていて、毎月楽しみに拝見させていただいています。

先日、平成30年版のカレンダーに二祖他阿真教上人のお言葉が載っているのに気付きました。次のようなお言葉です。

「財宝は煩悩の所依」

所依とは「拠り所」という意味ですから、「財宝は煩悩が拠り所にする存在である」とおっしゃっています。とはいえ、「財宝(お金)=煩悩=悪」と言われると私たちは生活できなくなってしまいます。ですから、ここでは財宝自体が“悪”と説かれているかというと、そうではないと思います。

例えるならば、財宝は「刃物」と同じようなものではないでしょうか。刃物は、調理に使えば食事の下ごしらえの道具、医師が使えばメスとして人命救助の道具になります。しかし、用途によっては人を傷つける凶器にもなりえるでしょう。お分かりかとは思いますが、要は「財宝」にも「刃物」にもそれ自体に罪はなく、それを正しく使えるかは私たちにかかっているのです。

お釈迦さまはかつて財宝のことを「毒蛇」であると例えられました。財宝に目がくらむと知らず知らずのうちに心を蝕(むしば)まれ、気づいた時には手遅れになってしまうことを知っておられたからです。よほど注意して扱わなければならないということを肝に銘じておかなくてはいけないでしょう。

そうは言っても私たちにそのような注意力、判断力がしっかり備わっていると自信をもって言えるでしょうか。もし自信がないというのならば、「財宝」も「刃物」も何事も、“必要以上に求めない、そばに置かない”というのも一つの手です。

さて戌年の新年、「煩悩の犬は追えども去らず」とはいいますが、しっかりと自分自身の在り方を見つめていきたいものです。 合掌