カテゴリー: 苦しみに克つ心

2月のお便り(令和5年・105号)

【今月の掲示板】

「人は常に幸福を求めるが、常に幸福に気付かない」 ルソーの言葉

 

2月 105号 お釈迦様の形見」 pdfファイル

 

“お釈迦様の形見”

厳しい冷え込みが続きますね。先月24日には京都市内も大雪が降り、幹線道路も真っ白、列車の立ち往生も起こるなど、大きな被害が出ました。私自身、長岡京光明寺での法然上人追慕法要への参列が急遽取りやめになるということもありました。

またコロナだけでなくインフルエンザも流行しているようです。人ごみに出かけない、体調を整える等、一層の用心をしなければなりませんね。

さて、文永9年(1272)2月17日は当寺を開いた宗尊むねたか親王の父親である後嵯峨天皇が崩御された日です。宗尊親王は後嵯峨天皇の寵愛を受けるも、11歳で鎌倉に下り、第6代鎌倉幕府将軍となりました。帰京後、31歳で出家されましたが、それは後嵯峨天皇の崩御を弔うためでした。その後の心情を和歌に残されています。

「朝夕に 面影映す 鏡こそ 別れし君が 形見なりけれ」

(朝夕に父帝ちちみかどの面影を映す鏡こそが形見なのだなあ)

「梅がは 四方に霞みて ありし世の 形見がほなる 春の空かな」

(梅の枝が四方に霞んでおり、父帝が在世の頃の形見のような春の空であることよ)

この二首は父帝である後嵯峨天皇を思慕する和歌です。皆様も同様の経験はないでしょうか。鏡を見たり、ある風景や物を見たりして父母や祖父母を思い出す時、姿かたちはなくとも、そこには確かに故人が現れるのです。

かつてお釈迦様は、自身の死期を悟った際、涅槃に入る前に弟子たちに「自灯明・法灯明」の教えを残されました。お釈迦様自身が亡くなった後、動揺が広がることを見越して、「他に依らず自らを灯明(拠り所)とし、他に依らず法(教え)を拠り所としなさい」と説かれたのです。お釈迦様が入滅されてから2000年以上、仏教は今日まで社会の変化に合わせ、人々の悩みに応じて大きく変容してきました。ただし、そこに「法(お釈迦様の教え)」に準じるという姿勢があったからこそ「仏教」の形を留めているのだと思います。

宗孝親王が詠まれた「形見」は、お釈迦様の「灯明」に通じるのではないでしょうか。今私たちが生きていくため、難題を乗り越えていくための拠り所は、自分自身の中にあるはずなのです。

合掌

 

令和5年2月限定御朱印(観梅・300円)

観梅とは梅の花を観賞することで、梅見とも言います。当寺境内の梅も咲き始めております。どうぞご覧ください。

 

令和5年2月限定御朱印(涅槃・800円)

2月15日の涅槃会がモチーフです。涅槃とはさとりの境地であり、お釈迦様は入滅により完全なさとりに入られたのです。滅後はその足跡、教えを表す仏足石が信仰の対象となりました。
入滅の前に弟子たちに「法に依って人に依らざれ(教えを頼りとするのであって、人を頼りとすることのないように)という教えを残されました。

 

令和5年2月限定御朱印(形見・宗尊親王和歌、柄付き和紙、見開き書置き800円)

「宗尊親王和歌シリーズ」です。親王像の絵は御奉納いただいたものを参考にしています。宗尊親王は当山の開基(創建者)です。史上初の皇族将軍として鎌倉幕府6代将軍に就き、その後更迭されるなど波乱に満ちたご生涯を過ごされました。和歌に非常に長けられ多くの作品を残されました。

「朝夕に 面影映す 鏡こそ 別れし君が 形見なりけれ」
解釈: 朝夕に父(後嵯峨天皇)の面影を映す鏡こそが形見なのだなあ

写経奉納限定御朱印(500円・月替わり2 月)

福升に入る兎と鬼役の猫です。
お写経を納め、阿弥陀様から「みました」の証を頂いてください。

 

令和5年限定御朱印(柔和の心・1000円)

1月のお便りに書かせていただきました「柔和の心」テーマにしています。

「学べば即ち固ならず(学問をすれば自分の考えに凝り固まることがなくなる)」とは孔子『論語』の言葉です。

令和5年限定御朱印書置きの実(愛敬・1000円)

愛敬(あいぎょう)とは愛しみ、敬うことです。仏様のお顔は柔和で慈悲にあふれており、「愛敬相」といわれます。現代の「愛嬌あいきょう」や「愛想あいそ」もこの言葉から来ています。

 

【2月の写経会は25日(土)14時からです】

*写経会の詳細は こちらから

 

 

>「京都時宗道場御朱印巡り」

 


年間行事予定(令和5年)

・通年…京都時宗寺院御朱印めぐり

・毎月第4土曜日14時~17時写経会

・1月8日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・4月8日…花まつり(釈尊降誕会)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

11月のお便り(令和4年・102号)

 【今月の掲示板】

「怨みは怨みを捨ててこそ息む」釈尊のことば

11月 102号 平安是福

平安是福へいあんこれふく

朝夕がひときわ冷え込むようになってまいりました。寒暖の差が激しいですので体調管理には十分お気を付けください。

さて、今月の御朱印には「平安是福」と書かせていただいております。読んで字のごとく、平和で安穏なることが私たちにとって幸福である、という意味です。今、世界ではロシアのウクライナ侵攻に端を発する戦争が起こっています。他にも紛争地域は数多く存在します。これらには複雑な歴史背景や宗教、政治が絡んでいるのだとは思いますが、感情による部分も大きく、憎む相手を許せないことも争いの長期化につながるのだろうと思います。

お釈迦様の教えが説かれた原始経典には、争いについて次のように示されています。「殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。(『スッタニパータ』)」、「怨みに報いるのに怨みをもてば、ついに怨みの息(や)むことなし。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。(『ダンマパダ』)」

まずお釈迦様が否定されているのは武器、つまり暴力です。たとえ争いが起きたとしても暴力を使えば解決の道は遠のきます。また近年はハラスメントがしばしば取り上げられるように、暴言、悪言もまた争いの種です。家庭や職場内でも気を付けたいものです。

そして、憎しみに憎しみで応じればまた新たな憎しみが生まれ、負の連鎖が止まらないとも説かれています。個人であれ国家であれ、自身にとって憎い存在、敵対的な存在は排除したいと考えるでしょう。そこには必ず闘争が起こりますが、歴史を見ても闘争によって幸福がもたらされることはないのです。お釈迦様は“敵対”という考え方自体を捨て、縁でつながる存在として相手を認めることが大事だとおっしゃっているのではないでしょうか。

宗祖一遍上人も弟子たちへの規範を示した「時衆制誡」の中で「もっぱら柔和の面を備えて、瞋恚しんにの相を現すことなかれ。(優しく穏やかな表情で接し、怒りや憎しみの様相を出してはならない)」と説かれています。

個々人がお釈迦様や一遍上人の教えを大切にし、時には自戒しながら正しい道を歩むことが平安への一歩となるのでしょう 合掌

合掌

 

令和4年11月限定御朱印(片袖の弥陀・300円)

当山の御本尊である阿弥陀如来像は、右袖が垂れていないので「片袖の弥陀」とも言われます。

今月は、境内のシュウメイギクをイメージしています。肉厚の花びらが可愛いですよね。

 

令和4年11月限定御朱印(平安是福・800円)

当山の庭の小さな石仏、本堂前の柱の獅子をモチーフにし、平和の祈りを込めています。「平安是福(へいあんこれふく)」は平和と安穏こそが幸福であると言う意味です。「瞋恚(しんに)の相」とは怒りや憎しみの様相をいいます。詳しくは今月の法話をご覧ください。

 

令和4年11月限定御朱印(鹿の声・宗尊親王和歌、柄付き和紙、見開き書置き800円)

「宗尊親王和歌シリーズ」です。親王像の絵は御奉納いただいたものを参考にしています。宗尊親王は当山の開基(創建者)です。史上初の皇族将軍として鎌倉幕府6代将軍に就き、その後更迭されるなど波乱に満ちたご生涯を過ごされました。和歌に非常に長けられ多くの作品を残されました。

「寝ねずこそ 妻恋ひすらし 小倉山 今宵も聞けば さ牡鹿の声」

解釈:寝ずに、妻を恋い慕っているらしい。小倉山で今宵もまた聞いてみると、それは牡鹿の声であった。

 

写経奉納限定御朱印(500円・月替わり11 月)

松ぼっくりと落ち葉で寝る猫です。
お写経を納め、阿弥陀様から「みました」の証を頂いてください。

【11月の写経会は26(土)です】

12月のお写経はお休みとさせていただきます

*写経会の詳細は こちらから

 

 

>「京都時宗道場御朱印巡り」

 


年間行事予定(令和4年)

・通年…京都時宗寺院御朱印めぐり

・毎月第4土曜日14時~17時写経会

・1月9日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・4月8日…花まつり(釈尊降誕会)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

1月のお便り(令和3年)

【今月の掲示板】

牛の歩みも千里

(牛の歩みのように成長が遅くとも、努力を続ければ千里という長い道のりを歩み目標に達することができるというたとえ)

 

“牛の歩みも千里”

明けましておめでとうございます。謹んで新春の慶びを申し上げますとともに、皆々様の安穏を心よりご祈念いたします。

さて、本年は丑年ということで、牛に関する話を調べてみました。牛と人との関わりは古く、8000年以上前から家畜として飼育されていたそうです。仏教が生まれたインドでも農耕と酪農に牛が利用されていましたが、一方でその存在が神聖化され、恵みをもたらす牝牛神「スラビー」やその息子で四足動物の守護神「ナンディン」などが神話に登場します。今でもインドに多いヒンドゥー教徒は牛を聖獣として崇め、食すことは禁忌とされています。

また牛に関することわざには「商いは牛のよだれ」(商売は牛のよだれのように細く長く切れ目なく、辛抱して続けることが大事だというたとえ)、「牛の歩みも千里」(牛の歩みのように成長が遅くとも、努力を続ければ千里という長い道のりを歩み目標に達することができるというたとえ)などがあります。どちらも、継続することの大切さがたとえられています。

仏伝にはこの言葉を体現されたかのような人が登場します。「チューラパンタカ(周利槃特しゅりはんどく)」というお釈迦様のお弟子様です。彼には非常に聡明な兄がおり、兄の勧めで教団に入りましたが、記憶力が極端に悪かったチューラパンタカはいつになっても一つの教えも覚えることができませんでした。兄は何とか覚えさせようとしますが上手くいかず、ついには匙を投げてしまいます。途方に暮れたチューラパンタカのもとにお釈迦様がやってきて事情を知ると、「自分が愚かだと気づいた者は愚かではない」言い、1枚の白い布を渡し「“ちりを払わん、あかを除かん”と唱えながら掃除をしなさい」と教えられました。

彼はこの短い言葉を必死に繰り返しながら、来る日も来る日も掃除を続けました。そして幾年も過ぎたある時、汚れを除くべきものの正体に気づきます。それは自らの心につもる塵や垢、つまり煩悩でした。智慧という布をもって煩悩を取り除く努力を続けることこそが、お釈迦様の伝えたかった真意であると知ったのです。煩悩とは単なる欲ではなく、根源には“思い込み”や“捉われ”があります。もしかしたらチューラパンタカには自分が愚か者だという思い込みや劣等感があったのかもしれません。しかしお釈迦様に気づきを与えられこれを取り除くことが叶い、周りから愚か者と呼ばれたチューラパンタカはついにさとりを得たのです。

“牛の歩み”のようであれ、一歩一歩と続けた努力が実を結ぶ日を願い、日々精進を続けたいものです。

合掌

 

【次回の写経会開催予定:1月23日午後2時より】

*写経会の詳細は こちらから

 

当月限定御朱印(300円)

御朱印のモチーフは「牛の歩みも千里」(牛の歩みのように成長が遅くとも、努力を続ければ千里という長い道のりを歩み目標に達することができるということ)です。

 

>「京都時宗道場御朱印巡り」

 


年間行事予定(令和3年)

・通年…京都時宗寺院御朱印めぐり(令和2年10月より)

・毎月第4土曜日14時~17時写経会(令和2年7月より)

・日時未定…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

6月のお便り(令和2年)

今月の言葉

しりてしらざれ、かえり愚痴ぐちなれ」

〈(意訳)知識を得ても知識にこだわらず、知恵がついてもおごり高ぶることがないようにしなさい。〉

「福田寺だより」6月 73号(PDF)

 

“知恵と智恵”

緊急事態宣言が全面解除され、少しずつですが日常を取り戻しつつあります。しかしながら油断大敵です。外出の際はこれまで通り、手洗い、うがい、消毒などの徹底を心掛けたいものです。

コロナ禍において多くの人々が苦しめられています。かつてお釈迦様はこの世を「一切皆苦」と表されました。この苦というものは、新型ウイルスによって突然もたらされたのではなく、何気ない日常に潜み、隙あらば私たちに襲い掛かるのです。苦の代表ともいえるものが「生・老・病・死」で四苦と呼ばれます。生を繋ぎながら死に向かう、その道々で苦に出会います。お釈迦様はまずこの四苦を克服することを願い修行を始められたといいます。

誰しもに平等にやってくるこの苦には原因があります。それは、“求めても自分の思い通りにならない”ことです。四苦だけでなくありとあらゆる苦しみに当てはまります。「なぜ欲しいものが手に入らないのか」「どうして自分だけがこんな目に合うのか」、自分や自分の所有物に固執するとこのように考えてしまいがちです。さらに、弱っているときほど周りが順風満帆に見えて、さらに苦しむという悪循環を起こしてしまいます。どのように苦と向き合えばいいのでしょうか。

私たちは生きる中で言葉と共に多くの知識を得ます。これは実生活では大変役に立ちますが、多くの知識を得て自分の中の常識ができてくると、「〇〇はこういうものだ」、「〇〇はこうすべきだ」といったように、それらに縛られてしまうことがあります。ここにこだわりが生まれ、思い通りにならず苦の原因となるのです。だからこそ仏教では非常識こそが大事なのではないかと思います。なにも顰蹙ひんしゅくを買うような言動をすべきというのではなく、ものごとの両面を考えるということです。常識が表とすれば、非常識は裏、表裏一体ですからどちらも大事です。総本山の他阿真円上人は100歳であられますが、「もう90歳ではない、まだ90歳だ」とよく仰っていました。

かつて伊予国(愛媛県)に仏阿弥陀仏という尼僧がおられました。この尼僧は、習わずとも仏法の要点を自然と語ることができ、常の心得として「しりてしらざれ、かえりて愚痴なれ」と言われたそうです。宗祖一遍上人はこの姿勢を「浄土教の教えにかなっている」と仰いました。まさに“知恵”(知識から来る心)を超えた“智恵”(ものごとをありのままに観る心)ではないかと思います。常に心に留めておきたいものです。

合掌

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・第4土曜日14時~17時写経会(令和2年4月より*未定

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり *開始延期

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)