今月の言葉
「一代の聖教の所詮はただ名号なり」
(お釈迦様が一代で説かれた教えの究極は、名号「南無阿弥陀仏」に結着する。)
『播州法語集』
“救いは行動にある”
時宗総本山護持会カレンダーの10月の格言はご覧になったでしょうか。
「救いは行動にある」です。これは一遍上人を敬愛した詩人・坂村真民さんの「行動」という次の詩の一節です。
“救いは行動にある 行動すること 打坐も読経も 行動を伴って しんに生きてくる”
打座とは只管打坐のことであり、“ただひたすらに坐禅する”という道元禅師の教えです。読経とは経典を読むことで、つまるところ口に称える念仏と言えるでしょうか。「救い」というのは仏様が救ってくださる、また自らが他者を救う、という両面であると感じます。いずれにせよ思いだけではなく、行動が伴わなければ願いは叶わないということです。
一遍上人は法語の中で、「お釈迦様の教えは最終的に念仏に集約されている。諸々の経典で阿弥陀仏の功徳について説かれており、浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)においても、念仏の教えを明らかにすること、念仏を勧めることが説かれている。このことを知りながら、学問や経典の研究ばかりして念仏を忘れているのは、他人の財産をむなしく数えるようなものだ。一向に自分の身にはならず、金千両の引換券を持っていても使わないでいるようなものである」と説かれました。もちろん経典をおろそかにしてよいという訳ではなく、理論ばかりで行動が伴わない“頭でっかち”への教訓です。同様に念仏は“極楽浄土行き”の切符に例えられることがあります。切符をせっかく持っていても列車に乗り込まなければ、救いも何もないということです。
一遍上人はまさに身体的、行動的な聖(ひじり)でした。口称念仏はもとより、「遊行」(全国を行脚し布教すること)、「賦算」(手ずから念仏札を配られること)、「踊り念仏」(念仏救済の喜びを表した踊り)という時宗三大行儀にもすべて通じています。教義云々を頭で「理解する」、「信じる」ということよりも、その場で身体を通して「感じる」ということに重きを置かれたことが分かります。
また、私も人のことを言えた義理はありませんが、心に何かを思っても行動に移せない人は割と多いのではないでしょうか。あるいは得られた知識だけで満足してお終いということはありませんか。インターネットが発達し、コミュニケーション不足、現代社会だからこそ、知識や言葉だけでなく行動・体験が重要になってくるのだと思います。最近の御朱印巡りや体験型の観光地の流行はこの一端かもしれません。
理屈に縛られず、“まずは一歩”と踏み出したいものです。
合掌
年間行事予定
・1月13日…総代会
・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)
・4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)
↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!
・5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)
・9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)