1月のお便り(令和2年)

今月の言葉

「名号の外に機法なく、名号の外に往生なし 」

(南無阿弥陀仏の名号の外に衆生(人間)や仏はなく、また名号の外に往生もない。名号が全てを包み込んでいる。)

『一遍上人語録』

 

“ 念仏は多いほうが良い?”

明けましておめでとうございます。

新年を迎え、謹んで至心に檀信徒の皆様のご平安を心より祈念申しあげます。

行く年来る年を題した俳句に高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」があります。新年を迎えれば、人は昨日を「去年」、元日からを「今年」と呼んで分け隔てますが、実際に明確な差はありません。それはまるで一本の棒のように切っても切り離せないものだということです。

さて、昨年のお正月号で「一息生死」のお話をさせていただきましたが、覚えておられるでしょうか。一期(一生)には始まりと終わり(生と死)があり、同様に一年、一月、一日にも始まりと終わりが来る。そうして突き詰めていくと一息にも生と死の繰り返しがあることが分かります。まさに“貫く棒”のように連綿と続く営みです。一息一息にも臨終があるのだと心得て、日々を大切に生きる重要さを一遍上人は説かれているのです。たった今現在と思っていても、あっという間にそれは過去になります。「今が一番若い」という言葉を掲示板で見たことがありますが、まさに“今”をかみしめる言葉ではないでしょうか。

仏教では、時間は刹那(一瞬)にやってきて刹那に過ぎ去るものであると考えます。過去・未来から切り離された非連続の“今”、この“今”が連続して時の流れを感じるのです。先ほどは生死の繰り返しを棒のようと申しましたが、棒に見えて実は輪切りの塊と言えるでしょう。一遍上人はこの時間の考え方から、お念仏の教えを「ただ今の念仏」、「一遍の念仏」をおっしゃいました。当時、念仏は多く唱えるほうが往生に繋がると考える人も多い中、一遍上人は数ではなく、一念一念を往生のため大事にする念仏を勧められたのです。ただ今念仏する時が往生の時であり、それ以外は考えられません。

この往生を可能にするものは一体何でしょうか。阿弥陀様の力でしょうか、念仏の数でしょうか、それとも信心の深さでしょうか。様々な解釈がありますが、一遍上人の答えは、名号「南無阿弥陀仏」です。阿弥陀仏は覚りを得られたとき、名号を唱えるすべての人々を極楽へ往生させることを誓われました。つまり名号こそが阿弥陀仏と人々を繋ぐということです。これを時宗では「機法一体の念仏」と申します。機は私たち衆生、法は阿弥陀仏を指します。ですから口で名号を唱える刹那、私たちは名号をかけ橋として阿弥陀仏と一体となっているのです。

合掌

「福田寺だより」1月 68号

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・写経会…詳細は後日