過去の法話(H29)

平成29年12月 【仏教は死後のため?】

「ただ今の念仏のほかに、臨終の念仏なし」―『一遍上人語録』

(解釈「今」称える念仏が日常の念仏でもあり、臨終の念仏でもある。臨終が日常であり、それが続く限りに人生がある。臨終に不安があるのなら、「今」念仏を称えなさい。)

「ただ今のお念仏」

宗祖一遍上人のお言葉は和歌や語録で残されていますが、その教えはこのフレーズに集約されているのではないかと思います。

さて、「輪廻転生」や「極楽」、「往生」という仏教用語を聞くと、皆様は“仏教は死後のため”の教えであると感じられるのではないでしょうか。決して間違っているわけではありませんが、仏教で最も重要とされるのは日常である「現在」です。

そもそも私たちは「過去」、「現在」、「未来」もしくは「前世」、「現世」、「来世」という区分で時間を常識的に捉えています。仏教ではこれを「三世」と呼びます。ただし、時間は実体的なものではなく、3つの時間軸も仮の区分であると説かれます。

そしてなぜ「現在」を重要視するかというと、「過去」は「現在」の原因であり、「未来」は「現在」の結果だからです。「過去」や「未来」に影響されているのも、結局「現在」の自分であることは明白でしょう。だからこそ「現在」を懸命に生きる意義を仏教は説いているのです。

そうはいっても死後の憂いが絶えないのが私たち凡夫です。

一遍上人は、臨終に念仏を称えられるか不安がっている人に対して、「死に際のみが臨終なのではなくて、生きている今も臨終であるから、死に際を心配するのではなく日常の念仏を大事にしなさい」と仰いました。

浄土教の極楽往生を知ることで死後の憂いをなくし、今生きている「現在」に専念できれば最良なのではないでしょうか。

さて今年も残すところあとわずか。一年を振返ったり、来年のことを想像したりする時期ではありますが、「過去」を引きずらず、「未来」に翻弄されず、「今、現在」を大切にしたいものです。  合掌

 

平成29年11月 【青・黄・赤・白】

南無阿弥陀

ほとけの御名の いづる息

いらばはちすの 身とぞなるべき」―『一遍上人語録』

(解釈もっぱら慈悲じひの心を起こして他人のうれいや悲哀ひあいの気持ちを理解して忘れないように。)

『阿弥陀経』の中に私の好きな一節があります。

「池中の蓮華、大きさ車輪の如し。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。」

“極楽浄土の池に咲く蓮の花は、青色であったり、黄色であったり、赤色であったり、白色であったりするけれども、それぞれがそれぞれの色で美しく光り輝いている”という意味です。

「隣の芝生は青く見える」と言いますが、人はどうしても他人と自分を比べたり、自分を他人に合わせたりしてしまいがちです。そうではなくて極楽浄土の蓮のように自分の色を自信をもって光らせなさいというのが仏教の教えです。他の色をうらやむ必要も、他の色になろうとする必要もないのです。

日本人は総じて集団主義であると言われてきました。その是非はさておき、主体性がなく周囲に合わせるということは、多様性というものが無くなるということです。多様性のない社会は閉鎖的、排他的な社会となるでしょう。

確かに集団生活では統率のために一定のルールは必要かもしれませんが、そういった場での協調性と主体性というものは必ずしも相反するものではないと思います。一人一人の価値観や性格は違って当たり前で、各々が個性を光らせながら共存することが理想であり、それをあらわしているのが極楽浄土なのではないでしょうか。

「今月のおことば」は宗祖一遍上人の臨終間際の和歌で、まさに蓮の花のように力強く生きられた一遍上人が、今度は蓮の実(仏様)となることを詠まれています。  合掌

 

平成29年10月 【彼岸への道】

道具秘釈どうぐひしゃく 一 袈裟けさ南無阿弥陀仏 苦悩を除くの法は名号みょうごうならぶもの無きを信ずる心、是即ち無対光仏むたいこうぶつの徳なり」―『一遍上人語録』

(解釈袈裟には、「私たちの苦悩を除く教えは名号の他にないと信じる心」という意味がある。この信心は無対光仏むたいこうぶつ(阿弥陀仏の12の異名のうちの一つ)が私たちに与えられた利益である。袈裟はそれを表していると理解し念仏を忘れないようにしなさい。

本格的に衣替えの時期がやってまいりました。

私たち僧侶の法衣にも夏物と冬物があります。法衣よりも袈裟(けさ)という名前の方が一般的で、よく勘違いされるのですが、袈裟というのは袖を通す衣ではなく、その上に着ける長方形の布だけを指します。種類によってマントのようだったり、棒状だったりします。

袈裟をよく見ると四角い布が縫い合わされる形になっていて、まるで畦道に仕切られた田んぼのように見えます。これは、かつて僧侶が財産を持てなかった時代に施された布を張り合わせて衣服としていたことに由来しています。かつてお釈迦さまは、田んぼから着想を得て「福田(ふくでん)」という言葉を使われ、そこから袈裟が別名「福田衣(ふくでんね)」と呼ばれるようになりました。

仏教では、田んぼにまいた種が収穫を生むように、善い行いをし、徳を積むと未来に善い果報を得ることができるとされます。その福徳を生む田んぼのことを「福田」と呼ぶのです。

つまり、「福田」とは徳を積むべき対象のことを指し、「敬田(きょうでん)」、「恩田(おんでん)」、「悲田(ひでん)」の3つにまとめて「三福田」ともいいます。

「敬田」とは、仏教で最も敬う対象である三宝のことです。三宝とは「ぶつ(仏さま)・ほう(仏さまのみ教え)・僧(教団)」をいいます。

「恩田」とは、最も恩義のある対象、つまり両親とご先祖様のことです。自分の存在の根源である相手に対して感謝し、追善を捧げます。

「悲田」とは、貧しい人、苦境に立つ人のことです。近年度々起こる大災害の被災者への施しもこれにあたるでしょう。

こうした善行の種はいずれ善い収穫をうみます。ただしあくまでもご縁ですからいつ収穫できるかは分かりません。“果報は寝て待て”といいますが、自分の行いの結果がすぐに返ってこなくても焦ることなく、常に自らを省みて、善行を積むことが大切であり、それが仏道を歩むということなのでしょう。   合掌

 

平成29年9月 【彼岸への道】

「専ら自身の自身のあやまちを制して他人の非をそしることなかれ」―『時衆制誡』

(解釈つねに自分自身の言動を省みて、他人の欠点だけを非難してはならない。時には相手の非に寛容になることも必要である。

9月になるとやはりお彼岸が思い浮かびます。

「彼岸」は日本古来の習慣で、春分、秋分の日を中日として前後3日間、計1週間の期間をさします。中日は太陽が真西に沈むことから、阿弥陀仏のおられる西方極楽浄土を想像するのにふさわしい日でもあります。

ただしもともと「到彼岸」=“智慧の完成”という言葉があるように、「彼岸」は煩悩が尽きない状態(此岸)から煩悩が滅された状態(彼岸)へ至るための修行期間という意味があります。

そして、その具体的な実践方法として「六波羅蜜」が挙げられます。「波羅蜜」とは先ほどの「到彼岸」と同じ意味です。

【六波羅蜜】

①布施(ふせ)・・・他者へ分け与えること。物質だけでなく笑顔や良い言葉づかいなどを他者へ施すことも言います。

②持戒(じかい)・・・戒を保つこと、自主的に善行を心がけること。

③忍辱(にんにく)・・・あらゆる障害に対して耐え忍ぶこと。

④精進(しょうじん)・・・目標に向かい努力すること。

⑤禅定(ぜんじょう)・・・精神を集中し、心を安定させること。

⑥智慧(ちえ)・・・お釈迦様の教えを分析し、ものごとの真実を見極めること。①~⑤は智慧波羅蜜へ到る手段です。

この6つの修行が悟りへの道の基礎となるものですが、どれも“言うは易し行うは難し”ではないでしょうか。特に3番目の「忍辱」は楽な暮らしになれた現代の私たちには耳が痛いものかもしれません。ですが、耐え忍ぶことは他人に対しても自分自身に対して福徳をもたらします。耐えること、寛容であることは怒りの感情を生まず人を傷つけることがありません。また、いかなる苦境にも耐えることはその人を成長させやがて大輪を開かせます。ただし心の中にモヤモヤを残して我慢することが「忍辱」では決してありません。あくまでも自分のための修行として精進することが大事なのです。  合掌

 

平成29年8月 【お盆のお経】

名号みょうごうの鏡をもて 本来の面目めんもくを見るべし」―『播州法語集』

(解釈私たちは煩悩にまみれた凡夫であるから自分自身や物事をありのままにみることができない。悟りの智慧を備えた名号という鏡をもって自己本来の様相を見るべきである。)

7月、8月はお盆の時期ということで、お墓参りに行く、もしくは家での読経をお願いするという方も多いのではないでしょうか。ご先祖様に手を合わせる際、私たちの宗派では必ず「南無阿弥陀仏」とお称えします。

この「南無阿弥陀仏」は「名号」とも呼ばれ、簡単に言うと“阿弥陀様を信じ、全てをお任せします”という意味です。阿弥陀様は、その修行時代に、全ての人々がこれから自分の建立する浄土へ生まれ変わることができないならば仏にはならないと誓い修行され、見事に誓いを果たし仏になられました。この誓いのことを本願と言い、阿弥陀様は48にも及ぶ本願を成就されました。私たちは阿弥陀様のお力をもって極楽へ往生するわけですから、この阿弥陀様の救済の働きは「他力本願」と呼ばれ、大変ありがたいものなのです。しかし、俗に「他力本願」というと、人任せといった良くないイメージが定着してしまっています。

宗祖一遍上人は法語の中で、“他力の名号”を鏡として自分自身の心を見つめなさいとおっしゃります。なぜ自分を見つめる際に鏡が必要なのでしょうか。それは私たちには自分の心をもって自分の心を見ることができないからです。例えるならば、自分の目で自分の目を直接見ることができないようなものです。鏡の力をもって初めて自分の目や心を見ることができます。

そして、ここでいう心とは“仏性ぶっしょう”(悟りを開き仏になれる資質)のことです。日頃、感情のコントロールもままならず、煩悩の尽きない私たちですが、本質的には仏性を持っています。だからこそ悟りの智慧を備えた “他力の名号”という鏡の力を借りれば、そのことに気づくことができ、仏様と同じように自分自身やあらゆるものをありのままの姿で見ることができるのです。こういった側面からも一遍上人は名号を称える念仏の道を説かれています。

合掌

平成29年7月 【紫陽花のように】 

「もっぱら柔和にゅうわおもてを備えて瞋恚しんにの相を現すことなかれ」―「時衆制誡」

(解釈いつも、穏やかな気持ちと顔で、怒りの相貌をださないようにしなさい。

皆様、坂村真民さかむらしんみんという詩人をご存知でしょうか。近現代を代表する詩人のひとりで、時宗の宗祖一遍上人を敬愛していたことでも知られます。その坂村真民の詩の中に紫陽花をテーマにしたものがあります。

「あじさいの花」

まるくまるく 

形のよいものになろうとする

やさしい心の

あじさいの花

きのうよりもきょうと

新しい色になろうとする

雨の日の

あじさいの花

丸みを帯びて柔和で、日が経つにつれて色濃くなる詩の中の紫陽花がつい菩薩様と重なってしまいます。

ところで、“まる”つまり“円”は仏教では完全や円満を意味し、非常に良いものとされます。名前に“円”がついておられる当本山住職の真円上人は「まあるく まるく まんまるく」とよく口にされ、「怒らない、威張らない」ということを説かれます。

人間関係において、トゲがあってカドもあるような人は相手の意見を受け入れることができず、自分本位にしかなれません。一方、カドがなく柔軟な人は相手の意見を受容できるゆとりがあります。これは単に人の意見に流されるということとはまた違い、自分の立場や意見を保ちつつ他者と調和できるというあり方です。一人一人が相手を理解し受容しようとするまどかな心構えをもつことが大事なのです。

色濃くまんまるの紫陽花のような心でありたいものです。  合掌

 

平成29年6月 【超世の願】 

ばかり超世のがんあずかるるにあらず」-『一遍上人語録』

(解釈:阿弥陀仏が建てられた誓願の救いは、人だけに通じているものではなく、生きとし生けるもの、ひいてはこの世のすべての現象に通じている)

 「人ばかり超世の願に預るるにあらず」

とは、一遍上人が興願僧都という人へ宛てた手紙の中のお言葉です。

その前には「よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。」という一節もあります。大まかに言うと、念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱えることではありますが、人間や動物、山河草木といった全ての生命、ひいては風の音、波の音も念仏のあらわれであり、念仏は人間だけのものではないという意味です。もしかするとこの意味がピンと来ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

まず、冒頭に出てくる「超世の願」とは、阿弥陀様が修行中に建てられた48の誓願、特にその中の第18番目の誓いを指しています。その誓いとは“この世において、私の名前を呼び極楽世界へ生まれ変わりたいと願う人がいて、もし一人でもその願いが叶わなければ仏にはなりません”というものでした。この誓いを果たされた阿弥陀様に一切をゆだね、極楽往生を願う――これが「南無阿弥陀仏」と私たちがお唱えする由縁です。(南無とは、帰依します、お任せしますという表明です)

超世(世代を超える)という通り、阿弥陀様が悟りを開かれた“過去”と私たちが今生きる“現在”をつなぐものが「南無阿弥陀仏」の念仏なのです。過去・現在だけでなく、善と悪、地獄と極楽、迷いと悟り、人間と動物、私と私以外、といった世の中で区別されているものも、念仏を唱える時にはそこに隔たりは生まれないのです。冒頭のお言葉にはこのような意味が含まれています。

一遍上人が「捨聖」と称されたのは、家や財産と言った物だけでなく、上で例に出したような相対的な差別、分別をお捨てになったからなのです。  合掌

 

平成29年5月 【“全体ゾウ”をみる】 

まなこのまへの かたちは めしいて見ゆる 色もなし」-『一遍上人語録』

(解釈:目の前に見えているものの形がどのようなものであるかは、目が見えなくなっては分からない。)

 突然ですが、『ゾウをでる』という映画をご存知でしょうか。これは『半落ち』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した佐々部清監督の作品で、映画制作にまつわる人々の人間模様が描かれています。

今回はこの映画の内容ではなく、タイトルの方に着目してみたいと思います。皆様、この『ゾウを撫でる』というタイトルの意味がお分かりでしょうか。

実は、この言葉の由来はインドの「群盲、象を撫でる」という寓話だそうです。群盲とは目が見えない人たちのことで、目が見えない人たちが象の様々な部位を触って、それぞれ感想を述べるというものです。足を触った人は臼(うす)のようだと主張し、尻尾を触った人は蛇のようだと主張する……といった具合に鼻や耳、背中を触った者もそれぞれ自分の触った部位だけで象を判断しようとして対立してしまいます。要は象の全体像を見ようとせずに、自分の狭い判断にとらわれてしまっているのです。

この寓話は人物やものごとの一面だけをみてすべてを分かったように判断してしまう人間の性格を表している例として挙げられますが、だからといって、私たちがものごと全体をとらえることはなかなか難しいことかと思います。それは、どうしても自分自身の間違いや勘違いに気づきにくいからです。

ですから、まず第一歩目として、私たちは自分自身が他者やものごとに対して多種多様な偏見を抱いてしまう存在(凡夫)であることを自覚する必要があります。そうすれば自ずと、自分の主張だけを通そうとする“群盲”にはならずにすむはずです。

普段目に見えているものが、本当に見えているかを考えたくなる寓話ではないでしょうか。  合掌

 

平成29年4月 【人のこと】 

一切衆生のためならで 世をめぐりての詮もなし」-『一遍上人語録』

(解釈:全ての人々のためにではなく、自分のためだけに世の中を生きたとしても無益なことではないか。)

今月はご本山において、4月21日より春季開山忌を迎え、総本山遊行寺を創建された遊行4代呑海上人の遺徳をお偲びいたします。

二祖真教上人や呑海上人は、宗祖一遍上人と異なり、遊行し全国を行脚するだけでなく、寺院を建立し僧侶を常駐させるという布教方法もとられました。それが今日まで残る全国の時宗寺院の始まりであり、現在も遊行と寺院の双方で布教するという時宗独特の習わしが残っています。

全国を行脚するにせよ、寺院に身を置くにせよ、布教の目的は身命を賭して念仏の教えを広め、多くの人に利益を与えることです。このように自分ではなく他者に心を配り、利益を与えることを仏教用語で「利他」と言い、非常に良い行いとされています。

ただ、人というのはどうしても自己中心的に考えてしまうことが多々あります。「自分さえよければよい」と普段は考えない人でも、時に利己的になることがあります。例えば、自分の子供さえよければよい、家族さえよければよい、出世のために・・・といった具合です。これでは社会もうまく回りません。そうではなく、あらゆる人、全ての人に思いやりの心を向けなさいと仏教では説かれています。

また、自分の心は変えようとせず、人にもっとこうしてほしい、こうすべきだ、と押し付けるのも自分中心の一つと言えます。よくよく考えてみれば、自分の心さえ変えるのは難しいのに、人の心を変えるのはなおさら難しいことだと思いませんか。人に「何々すべき」と言うのではなくて、「自分はこうありたい」と考えるのも人間関係を良くする一つの手段でしょう。

利他の精神は、社会全体の潤滑油として働き、人間関係をより良くします。周囲の人々が幸せであれば、自分も日々笑顔で過ごすことができる、そうしたご利益となって戻ってくるのです。   合掌

 

平成29年3月 【捨ててこそ】 

「捨ててこそ」(中略)是誠これまことに金言なり」-『一遍上人語録』

(解釈:念仏を唱える時の心構えを聞かれた空也上人は、「捨ててこそ」とだけおっしゃられた。これは誠に素晴らしい教えで念仏をする人は心身ともに執着から離れ、すべての境界を捨てて、阿弥陀仏に帰依することが大事なのである。)

先日、お檀家様から「一遍上人の“捨ててこそ”という言葉はどういう意味ですか」、とのご質問がありました。実は、この言葉は一遍上人ではなく、慕われていた空也上人のお言葉なのですが、説法でも「捨てる」という言葉を多く使われたため、一遍上人は「捨聖」と呼ばれ、“捨ててこそ”のイメージが定着しているのだと思います。

その生涯をみてみると、一遍上人は遊行(全国を行脚し教えを説くこと)の途中で妻と子供と決別し、さらに旅路では衣もボロボロ、食も、住居も求めないという衣食住への執着を完全に取り払われた生き方をされました。その生き方はまさに「捨てる」生き方と言えましょう。

ただし、一遍上人は私たちに衣食住を完全に失くしなさいとおっしゃってはおられません。私たちがまず「捨てる」べきものとは、“利己的な衣食住への執着”なのです。つまり、“自分さえ衣食住が満足ならばよい”という考え方をまず捨てる、ということです。そのためには必要以上の衣食住は離れなければなりません。そして、この「捨てる」教えが、様々な物質や情報、欲望があふれる現代社会において大きな意義を持つのではないでしょうか。

一遍上人は「捨てる」という教えを通して、私たちが往々にして陥りがちな自己中心的、独善的な考えを諌められ、私たちが縁起の中で深くつながりあっていることを改めて説かれているのだと思います。

縁起とは全ての存在は共につながり、支え合っているという仏教の基本的な教えです。おかしな個人主義が蔓延する現代社会が生み出している様々な苦しみの原因は、この縁起の思想を見失っていることかもしれません。

念仏を通して、縁起や自省の道を説かれた一遍上人の教えを、今一度心に刻む必要があるのではないでしょうか。

  合掌

 

平成29年2月 【無常と“今”】 

「身を観ずれば水の泡

消えぬる後は人もなし

命をおもへば月の影

出入息にぞとどまらぬ」-『一遍上人語録』

(解釈:人間とは、水の泡のようで、消えてしまえば何も残らないはかない存在である。命は水に映った月のように頼りないものであり、吸っては吐く一息一息も常に連続していているが、いつ止まるか分からず永遠不変ではないのである。)

2月15日はお釈迦さまが涅槃に入られたことを偲ぶ「涅槃会」が全国的に行われます。涅槃とは煩悩を完全に滅した深い瞑想状態のことをいいます。日本では涅槃=死と考えられることが多く、本来とは違った意味が定着してしまっています。

さて、お釈迦さまは入滅に際し、次のような言葉を告げられました。

さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう、

『もろもろの事象は過ぎ去るものである。

怠ることなく修行を完成しなさい』と。

(大パリニッバーナ経、中村元『ゴータマ・ブッダⅡ』)

このように弟子たちへ激励の言葉を残すとともに、諸行無常の教えを改めて説いたのち入滅されたのです。

仏教で最も重要な教えの一つである「諸行無常」。『平家物語』の冒頭の一節「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」で日本人にもなじみ深い教えでしょう。

世の中のすべてのものは変化し、不変のものはない、というこの真理は、身近なところでも感じることができます。例えば今の状態がずっと続くものだと錯覚している人は、体の老いや病気、死や別れなどの変化に直面した時、大きな苦しみを生じます。無常であることを知っていても苦しみをすべて消すことは難しいとは思いますが、それが軽減されることもまた確かでしょう。

そして無常を知ればこそ、このひと時ひと時を大切にし、有意義に過ごせるのだと思います。

今できる限りの最善を努め、ご先祖様から受け継いできた貴重な人生を全うしたいものです。 合掌

 

平成29年1月 【健康の“得”】 

生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば

貴賤高下の隔なく 貧富共にのがれなし -『一遍上人語録』

(解釈:人が生きる上での苦しみである「老い」、「病気」、「死」は、地位や貧富とは全く関係なくやってくるものであり、逃れることはできないものである。)

一年が過ぎるのは早いもので、光陰矢の如しとはよく言ったものです。

昨年は、総本山遊行寺の住職である他阿真円上人が運転免許証を自主返納されたことが大きな反響を呼び、様々な議論を生むきっかけとして注目されました。高齢ドライバーの増加は日本が直面している「超高齢社会」問題の氷山の一角であり、真円上人は常々そのことを案じられています。そして、「健康寿命」という言葉をキーワードに、日本が直面している超高齢社会の諸問題について語られます。

健康というのは身体の健康と心の健康の二つから考えることができ、言うまでもなく人にとっては心(精神状態)が健康であることが大変重要です。皆様の中で健康を気にされている方は多いかと思いますが、実際に食生活を節制し、適度な運動、睡眠をとれている方は少ないのではないでしょうか。

さてここで『法句経』(『ダンマパダ』)にでてくるお釈迦さまのお言葉を紹介したいと思います。

健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、

信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである

(*ニルヴァーナ=涅槃=さとり=心の安らぎ=心の平和

まず第一句で健康が最高の「得」であるとお釈迦さまはおっしゃいます。病気になると、仕事にも支障が出ますし、お金もかかります。これは人が生きていくうえで大変「損」なことであり、逆に健康でいることは最高の「得」なのです。健康な身体を持っている人は、常に「得」をしていて、それだけで喜ばしいことだと理解できるでしょう。

ただし、お釈迦さまは病気にかかっている人を「損」だとおっしゃったわけではありません。病気と闘っている時は自分も努力しますし、周りの多くの支えにも改めて気づくでしょう。そこから多くのことを学べる人は「得」であり、決して「損」ではないのです。

お釈迦さまや一遍上人がおっしゃるように、病気や老いはどんな人であろうとも逃れることはできません。自分がその立場になった時、いかに「損」を「得」に変えられるかが大事になってくるのではないでしょうか。  合掌