タグ: 浄土宗

4月のお便り(令和2年)

*新型コロナウイルスの影響を考慮し、4月からの写経会は延期させていただきます

今後の予定に関してはお便りやホームページなどでお知らせさせていただきます。

また、「京都時宗寺院の御朱印巡り」もチラシ・御朱印帳・満願証の制作などが進んではおりましたが、現況に鑑み、開始が延期になりました。

今月の言葉

もう利他りた

(自分自身のことを忘れ、他者の利益のために尽くすこと、それが最上の慈悲である)

「福田寺だより」4月 71号(PDF)

 

“ 共に乗り越えましょう”

コロナウイルスによる新型肺炎の脅威が増しております。3月27日現在、感染者数は日本で2,000人を突破し、世界では50万人を超え、さらに広がりを見せています。各地で移動の自粛要請が出され、政府による「緊急事態宣言」発令の準備も進められています。まさに未曾有の危機と言えるでしょう。

また、コロナウイルスの脅威に付随して、マスクや生活必需品の買い占め、転売といった問題が出てきました。物品を買い占める人や転売する人は違法ではないからと言い訳し、モラルの欠如が浮き彫りになりました。これは世界中で見られた現象で、ウイルスがきっかけというだけであって、人間の本質的な問題であると言えるでしょう。

もちろん、一部の人がこういった行動をしているだけという見方はできますが、不安からデマだと知りつつ必要以上に物品を買いだめしておこうと考える人も多いのも事実です。

このような難しい状況ほど人間は手を取り合って困難に立ち向かわなければなりませんが、現状はいかがでしょう。政治家や専門家も各々の立場や利害に基づいて提言や政策がなされるため、人々の間にパニックが広がったのではないでしょうか。偏見や差別、風評被害も散見されます。

今求められることは、闇雲に恐れずウイルスの抑制に向かって冷静に対応することです。簡単なことでありませんが、“冷静になろう”、“乗り越えられる”と考えることが心の余裕にもつながるかと思います。

そしてやはり今一度、仏教の精神に立ち返る必要があるのではないかとも思います。伝教大師は冒頭の言葉「忘己利他」という言葉を残されています。仏教者の根本精神、理想姿ともいうべき教えです。

また、普段お読みするお経の中に「自他法界同利益じたほうかいどうりやく」という一節が出てきます。大意は「自分や他者、生きとし生けるもの全てが、この世界の利益を等しく受け取る」です。仏教の基本は自利と利他、つまり自分にも他者にも利益がある事を良しとします。現代風に言うと「Win-Win」でしょうか。

自分も他者も世の中もあらゆる縁でつながっていますから、結局自分に返ってくるのです。自分より人を優先しなければならない、ということではなく、この一つの世界の利益を分かち合い、共存共栄を目指すということが大事なのだと思います。

合掌

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・第4土曜日14時~17時写経会(令和2年4月より*未定

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり *開始延期

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

3月のお便り(令和2年)

今月の言葉

無縄自縛むじょうじばく

(〔意味〕縄もないのに、みずからわが身をしばること。迷者は迷いに、悟者はさとりにとらわれて、自由になることのできない状態をいう。(精選版日本語大辞典))

「福田寺だより」3月 70号(PDF)

 

“ 般若心経”

先月に引き続き新型肺炎が猛威を振るっております。体調管理にはくれぐれもお気を付けください。

今年の春のお彼岸は3月17日~23日(20日が中日)までの期間です。22日には本堂で恒例の彼岸施餓鬼法要もございます。

またこの度、4月より「写経会」を開催することとなりました。どなたでも気軽に参加いただければと思っております。1度だけの体験でも、もちろん結構です。ただし、新型肺炎の影響が懸念されますので、また4月のお便りにも開催の有無をお知らせいたします。

写経というと、「難しそう」、「筆は慣れてないから」、と敬遠される方もおられますが、もったいないことです。“上手く”ではなく“心を静めて丁寧に”が、一字一字に仏様が宿られていることを意識して、写し取っていくことが大事です。

写経する経典として一般的なのものは『般若心経』です。文字数は266文字と非常に短いですが、大乗仏教を代表する経典とも言われ、現在でも浄土真宗、日蓮宗系を除きほとんどの宗派でまれています。時宗においても、特に祈願に関する法要ではよく誦まれ、総本山遊行寺では毎朝の勤行の後に、天照皇大神・熊野権現・大隅正八幡大菩薩の神棚に向かい読経する際に用いられます。

『般若心経』は正式には『般若波羅蜜多心経』といい、「空」を正しく理解した時に人々は苦しみから解放されると説かれています。この「空」の思想はお釈迦様が説かれた「縁起」と密接に関係しています。「縁起」とは全てのものは、独立して成り立っていないという教えです。例えば、「車」はタイヤやボディ、ガラス、ライトなど様々な部品が縁として集まって車と認識できます。一つの部品を見て「車」であると思う人はいないでしょう。ですから「車」が有ると思い込んでいますが、結局はパーツの集合体であって、「車」そのものの実体はないのです。この「車が有る」と思い込んでいるだけで実は実体がない、というのが「空」の思想です。この例だけではなく、基本的に私たちは、何かについて“このようにあるものだ”とか“こうあるべきだ”と考えてしまい、この先入観で苦しみを生み出します。まさに「無縄自縛」の状態で、「無い」ものを「有る」と思うから苦しむわけです。常識にとらわれず、何かに固執せず、ものごとをありのままに観ることができれば、苦しみから解放されると『般若心経』は教えてくださっているのです。  合掌

 

先月開催のフラワーアレンジメント教室の様子

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・第4土曜日14時~17時写経会(令和2年4月より)

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

2月のお便り(令和2年)

今月の言葉

「有心は生死しょうじの道、無心は涅槃ねはんの城なり 」

(〔解釈〕相対差別の心をもてば迷いの道があり、その心を無くせば安らかな境地へと入ることができる)

『一遍上人語録』

「福田寺だより」2月 69号(PDF)

 

“ 3つの旗印”

余寒厳しい折ですが、いかがお過ごしでしょうか。全世界で新型コロナウイルスが猛威を振るっております。一刻も早い事態の収束を願うばかりです。

さて、2月15日は、仏教三大行事の一つである涅槃会の日です。お釈迦様が亡くなり、完全な涅槃へ入られたことを偲びます。涅槃とはさとりの境地、苦しみが消滅した状態を指します。よくタイなどで見られるお釈迦様が横になっている像が涅槃のお姿で、頭を北に顔は西を向き、右脇を下にしておられます(頭北西面右脇臥)。この涅槃は涅槃寂静ともいい、仏教の基本教理である「三法印」の一つに挙げられます。少し紹介したいと思います。

【三法印】とは・・・ ①諸行無常 ②諸法無我 ③涅槃寂静じゃくじょう

  • ➀「諸行無常」は最も基本的な真理といえます。すべての物事は永遠に存在するはせず、常に変化することを意味します。人の命も無常であり、はかないものです。“無常を観ずるは、菩提心のはじめなり”といい、自分の死を見つめたとき、本当の幸せ、さとりの道を目指すきっかけが生まれるのです。
  • ②「諸法無我」はあらゆるものは因縁によって成り立っており、独立した存在、実体は無いという意味です。自分の体や心など、“私のもの”と思っている存在も、実は「無我」=「私のものではない」という教えです。
  • ➂「涅槃寂静」とは涅槃が安らかな寂静の境地であるということを意味します。あらゆる煩悩や執着から離れることができれば涅槃に入ることができ、仏教理想の境地とも言えます。

この3つに「一切皆苦」を加え、四法印と呼ぶこともあります。印とは旗印のことですから、三法印は仏教が掲げる基本的教義の旗印ということになります。大変大事なものですから常に心に留めおきたいものです。

合掌

~念仏行脚~

先月24日は恒例の「法然上人追慕念仏行脚」に参加しました。夕刻に太秦西光寺を出発し、2か寺で勤行したのち、粟生光明寺(西山浄土宗総本山)にて追慕法要を行いました。5教団の僧侶が集まり、一般参加者を含め約160名が約16キロ、5時間半の道のりを歩きました。

実は福田寺のお檀家さんもお一人参加され、無事満行されました。この道のりは、他教徒からの迫害が強まる中、法然上人のご遺骨を、お弟子方が光明寺まで運んだことに由来します。一心に念仏を称え、行脚する姿は、法然上人への報恩感謝そのものなのです。

 

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・写経会…詳細は後日

1月のお便り(令和2年)

今月の言葉

「名号の外に機法なく、名号の外に往生なし 」

(南無阿弥陀仏の名号の外に衆生(人間)や仏はなく、また名号の外に往生もない。名号が全てを包み込んでいる。)

『一遍上人語録』

 

“ 念仏は多いほうが良い?”

明けましておめでとうございます。

新年を迎え、謹んで至心に檀信徒の皆様のご平安を心より祈念申しあげます。

行く年来る年を題した俳句に高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」があります。新年を迎えれば、人は昨日を「去年」、元日からを「今年」と呼んで分け隔てますが、実際に明確な差はありません。それはまるで一本の棒のように切っても切り離せないものだということです。

さて、昨年のお正月号で「一息生死」のお話をさせていただきましたが、覚えておられるでしょうか。一期(一生)には始まりと終わり(生と死)があり、同様に一年、一月、一日にも始まりと終わりが来る。そうして突き詰めていくと一息にも生と死の繰り返しがあることが分かります。まさに“貫く棒”のように連綿と続く営みです。一息一息にも臨終があるのだと心得て、日々を大切に生きる重要さを一遍上人は説かれているのです。たった今現在と思っていても、あっという間にそれは過去になります。「今が一番若い」という言葉を掲示板で見たことがありますが、まさに“今”をかみしめる言葉ではないでしょうか。

仏教では、時間は刹那(一瞬)にやってきて刹那に過ぎ去るものであると考えます。過去・未来から切り離された非連続の“今”、この“今”が連続して時の流れを感じるのです。先ほどは生死の繰り返しを棒のようと申しましたが、棒に見えて実は輪切りの塊と言えるでしょう。一遍上人はこの時間の考え方から、お念仏の教えを「ただ今の念仏」、「一遍の念仏」をおっしゃいました。当時、念仏は多く唱えるほうが往生に繋がると考える人も多い中、一遍上人は数ではなく、一念一念を往生のため大事にする念仏を勧められたのです。ただ今念仏する時が往生の時であり、それ以外は考えられません。

この往生を可能にするものは一体何でしょうか。阿弥陀様の力でしょうか、念仏の数でしょうか、それとも信心の深さでしょうか。様々な解釈がありますが、一遍上人の答えは、名号「南無阿弥陀仏」です。阿弥陀仏は覚りを得られたとき、名号を唱えるすべての人々を極楽へ往生させることを誓われました。つまり名号こそが阿弥陀仏と人々を繋ぐということです。これを時宗では「機法一体の念仏」と申します。機は私たち衆生、法は阿弥陀仏を指します。ですから口で名号を唱える刹那、私たちは名号をかけ橋として阿弥陀仏と一体となっているのです。

合掌

「福田寺だより」1月 68号

 

年間行事予定

・1月12日…総代会

・2月15日14時…🈠フラワーアレンジメント教室

【参加費1,000円、申込締切1/31、持物/花切はさみ(あれば)】

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月頃~…京都時宗寺院御朱印めぐり

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

・写経会…詳細は後日

12月のお便り

今月の言葉

もっぱら仏法僧を念じて、感応かんのうの力を忘るることなかれ」

(よくよく三宝(仏様・み教え・教団)を念じて、日頃の仏様からの働きかけの力を忘れてはならない)

『一遍上人語録』

 

“ 御朱印よもやま話”

毎年のことですが、一年はあっという間で、年の瀬もいよいよ押し迫ってきました。

皆様がよいお年を迎えられますよう祈念申し上げます。

さて、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、お寺の玄関に「御朱印」の見本を置かせていただきました。近年、老若男女問わずブームになっている御朱印巡りですが、当山にも最近ちらほらと参拝と御朱印を目当てに来られる方がいらっしゃいます。ここ富小路通り(五条~六条)周辺は、「下寺町」と呼ばれる地域で寺院もたくさんあり、まとめて参られる方も多いようです。

当山の「乳房(ちぶさ)地蔵尊」へは乳房守護や母乳祈願といった御利益で参られる方だけでなく、「洛陽四十八所地蔵霊場」の札所巡礼という方もおられます。

ただし、過熱するブームに賛否両論あります。インターネットで御朱印や御朱印帳が高値で売買されたり、御朱印の待ち時間の長さに文句をつけたりと、本来の御朱印の意味から外れた人も一部見受けられます。もともと御朱印は納経や読経の証しとして頂いたことが始まりとされ、神仏の御心が入っているとも考えられます。スタンプラリーとは違うと言われる由縁はここにあり、御朱印や御朱印帳は大切に扱わなければならないのはもちろんのこと、頂く人自身の心にも誠意がなければなりません。

江戸時代から流行しだした御朱印巡りは、当時から書き置きのものや、印刷されたもの、版木のものなど様々あったようです。最近は、カラフルなものや絵をあしらったものなど趣向を凝らした御朱印が増えてきました。当山では、今のところ“ちぶさ地蔵尊”と“南無阿弥陀佛”の御朱印2種類を用意していますが、良いアイデアが出てきたら種類を増やそうかとも思っています…。お檀家の皆様も御朱印を集めている方がいらっしゃいましたら気軽にお声掛けください。

そして実は現在、京都の時宗寺院での御朱印巡りが計画されています。京都の時宗寺院は兼務寺院を含めて16ケ寺あり、全てが市内に建っています。時宗寺院は他宗派から転向していることが多いので、同じ宗派でも異なっているところや共通しているところ様々あり、本当に興味深いです。また具体的に企画が進めばお知らせさせていただきます。

一過性のブームではなく、感応(仏様からの働きかけ)の証しとして御朱印を大事にしていただければと思います。

合掌

「福田寺だより」12月 67号

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

11月のお便り

今月の言葉

「臨終 即 平生へいぜいなり」

(臨終というのは死に際だけではない。一瞬一瞬、一念一念に生と死は繰り返されている。)

『一遍上人語録』

 

“ 真教上人七百年御遠忌 成満 

台風19号が東日本を直撃し甚大な被害を及ぼしました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い復興を願うばかりです。

被災した遊行寺大イチョウ

神奈川県藤沢市の総本山遊行寺も被災しました。樹齢700年で本山のシンボルとも言える大イチョウの一部が、強風により折れてしまいました。樹高21メートル、幹回り7メートルで市の天然記念物でもありました。再生を願いたいと思います。

奇しくも、10月11日~15日は「二祖真教上人七百年御遠忌」法要が修されており、私も裏方として出仕しておりました。台風直撃はまさに御遠忌真っ只中で、多くの団体参拝はキャンセルになったものの、何とか法要全てを成満することができました。

思い返せば本御遠忌は「なむあみだ佛はうれしきか」をスローガンに掲げ、昨年9月16日の神戸・真光寺での「有縁の地法要」から始まりました。さらには福井県敦賀市の来迎寺、氣比神宮で記念法要が勤められました。そして、今年の2月27日の開白法要を皮切りに本山において毎月様々な法要が行われ、10月の結願法要を迎えたのです。住職は「二祖上人七百年御遠忌実行委員会」の委員として、私は広報部会員として御遠忌に携わらせていだき、時宗教団の礎を築かれた真教上人の恩徳を偲ぶとともに、祖師方より受け継がれてきた念仏の教えの喜びを広く分かち合えるようにと注力してまいりました。京都教区においても、京都国立博物館で御遠忌特別展、並びに「踊躍念仏」法要の公演、合同での本山団体参拝と、多くの檀信徒の皆様が御遠忌に触れていただくことができました。

結願法要 (右:他阿真円上人) (左:当山住職)

 

「なむあみだ佛はうれしきか」とは、宗祖一遍上人が真教上人にかけられたお言葉で、念仏に生きる喜びをよく表していると思います。真教上人もそこに強く共感し教団の後継に尽力されたのです。時宗の教えでは、命が尽きる時に極楽往生を遂げようという考え方よりも、生きている“今”、念仏を称えて往生を果たそうという「平生往生」が強調されます。“往生=死”ではなく、念仏することにより自分が様々な命に生かされている、絶対的な仏である阿弥陀仏のみ光に包まれているのだと気づくことが大事なことだと説かれます。

今回の御遠忌を通して学んだこと、感じたことを今後に生かしていきたいと存じます。

合掌

「福田寺だより」11月 66号

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

10月のお便り

今月の言葉

「一代の聖教の所詮はただ名号なり」

(お釈迦様が一代で説かれた教えの究極は、名号「南無阿弥陀仏」に結着する。)

『播州法語集』

 

“救いは行動にある”

時宗総本山護持会カレンダーの10月の格言はご覧になったでしょうか。

「救いは行動にある」です。これは一遍上人を敬愛した詩人・坂村真民さんの「行動」という次の詩の一節です。

“救いは行動にある 行動すること 打坐も読経も 行動を伴って しんに生きてくる”

打座とは只管打坐しかんたざのことであり、“ただひたすらに坐禅する”という道元禅師の教えです。読経とは経典を読むことで、つまるところ口に称える念仏と言えるでしょうか。「救い」というのは仏様が救ってくださる、また自らが他者を救う、という両面であると感じます。いずれにせよ思いだけではなく、行動が伴わなければ願いは叶わないということです。

一遍上人は法語の中で、「お釈迦様の教えは最終的に念仏に集約されている。諸々の経典で阿弥陀仏の功徳について説かれており、浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)においても、念仏の教えを明らかにすること、念仏を勧めることが説かれている。このことを知りながら、学問や経典の研究ばかりして念仏を忘れているのは、他人の財産をむなしく数えるようなものだ。一向に自分の身にはならず、金千両の引換券を持っていても使わないでいるようなものである」と説かれました。もちろん経典をおろそかにしてよいという訳ではなく、理論ばかりで行動が伴わない“頭でっかち”への教訓です。同様に念仏は“極楽浄土行き”の切符に例えられることがあります。切符をせっかく持っていても列車に乗り込まなければ、救いも何もないということです。

一遍上人はまさに身体的、行動的な聖(ひじり)でした。口称念仏はもとより、「遊行」(全国を行脚し布教すること)、「賦算」(手ずから念仏札を配られること)、「踊り念仏」(念仏救済の喜びを表した踊り)という時宗三大行儀にもすべて通じています。教義云々を頭で「理解する」、「信じる」ということよりも、その場で身体を通して「感じる」ということに重きを置かれたことが分かります。

また、私も人のことを言えた義理はありませんが、心に何かを思っても行動に移せない人は割と多いのではないでしょうか。あるいは得られた知識だけで満足してお終いということはありませんか。インターネットが発達し、コミュニケーション不足、現代社会だからこそ、知識や言葉だけでなく行動・体験が重要になってくるのだと思います。最近の御朱印巡りや体験型の観光地の流行はこの一端かもしれません。

理屈に縛られず、“まずは一歩”と踏み出したいものです。

合掌

「福田寺だより」10月 65号

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

9月のお便り

今月の言葉

「怒りに等しい損失はない」

『法句経』

“智恵あるものに怒りなし”

最近、またしてもメディアを騒がせた高速道路での「あおり運転」。2年前の痛ましい「東名高速夫婦死亡事故」の記憶も新しく、厳罰化等、早急な対策が求められています。

「あおり運転」も含め、暴力沙汰の加害者になりやすい人の特徴としては、ストレス耐性の低さが挙げられるようです。例えば、運転中には当然他の車や信号、歩行者、走行速度、到着時間など気にしなければいけないことも多く、そのストレスへの忍耐力が低いと、怒りを生み出してしまうということです。

お釈迦様は、怒りそのもの自体も損失であるとおっしゃり、また、怒りをぶつけられたときも決して怒り返してはならないと説かれました。

「怒り」に関する次のようなエピソードが残されています。

ある時、異教徒の青年がお釈迦様に向かって罵詈雑言を並べました。お釈迦様は黙って暴言を聞いておられましたが、青年が話し終わると、静かに尋ねられました。

「あなたは、お客を家に招くことがあるか」

青年は答えます。「もちろんだ」

「お客がそのとき、あなたの出した食事を食べなかったらどうするか」

「自分や家族で食べるだろう」

「今あなたが出した罵り、侮辱を私は受け取らなかった。その罵り、侮辱は、誰のものになるのか。自らに返ってくるよりほかないだろう」

さらに偈頌(詩文)で次のように示されました。

“侮辱する人に侮辱を返す人 怒る人に怒りを返す人 喧嘩を売る人の喧嘩を買う人

侮辱はその人のものになる 怒りはその人のものになる  喧嘩もその人のものになる”

お釈迦様のこの言葉で青年は恥じ入り、仏教に帰依するようになったということです。

“売り言葉に買い言葉”とも言いますが、ついつい私たちは何か心外なことを言われると、言い返したくなります。ここに意地やプライドが混じってくると、怒りが怒りを呼び、さらに事態は悪化してしまうことは皆さん経験があるのではないでしょうか。お釈迦様のように相手のどのような態度にも動じず、寛容な心で接するというのは難しいかもしれませんが、相手の喧嘩を買ってしまえば、相手と同じ土俵に立ったことになるというのは肝に銘じておかなければなりませんね。

間もなく迎える秋のお彼岸。お彼岸というのはご先祖様の供養のほかに、仏道修行の期間という意義があります。先ほどのエピソードは「忍辱にんにく」(自らの修行のために耐え忍ぶこと)という仏教の実践に当てはまります。“智恵あるもの”を目指して精進したいものです。

合掌

「福田寺だより」9月 64号

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

8月のお便り

 

“餓鬼にご用心”

梅雨に猛暑、そして台風と、忍耐力が養われる天気が続きますね。お盆のお墓参りやお出かけの際には、水分補給等に十分ご留意いただければと思います。

さて「お盆」とよく混同されるものに「施餓鬼せがき」があります。お盆に行われる法要は「盂蘭盆会うらぼんえ」というのに対し、施餓鬼の法要は「施餓鬼会」、「施食会せじき」といいます。ただし、関東を中心にお盆の時期に施餓鬼法要を行うところも多く、意味合いが少しごちゃ混ぜになっている節があります。どうしてでしょうか。

まず、盂蘭盆会は『盂蘭盆経』というお経をもとに修されます。ある時、お釈迦様の十大弟子のひとり目蓮尊者が神通力をもって亡き母の姿を探すと、餓鬼の世界に堕ちていることを知りました。飢えと渇きを訴えていたので、水や供物を捧げようとしますが、口に入る直前に炎となり母親の口には届きませんでした。この餓鬼の世界は、欲にまみれたものが堕ちる世界です。お釈迦様に相談したところ、安居あんご(雨季の修行)が終わるころ、多くの僧侶に供物を捧げるようにと答えられました。その通り実行すると、僧侶たちはもとより、餓鬼道の母親も供養できたと説かれています。

一方、施餓鬼会は『救抜焔口餓鬼陀羅尼ぐばつえんくがきだらに経』に依っており、こちらは十大弟子の阿難あなん尊者の物語です。ある時、瞑想中に焔口という餓鬼が現れました。口から火を吐く恐ろしい姿の餓鬼は、阿難尊者に向かって「3日後、お前は死んで私と同じ餓鬼道に堕ちるだろう」と告げました。困った阿難尊者はお釈迦様に助けを求めると、「それを避けるには仏・法・僧の三宝、また一切の餓鬼に供養しなければならない」、「一器の食物を無量無数にする秘法がある」と教わりました。この教えのお陰で阿難尊者は寿命を延ばすことができたと説かれています。

ここで共通している点、重要な点は、餓鬼の存在と供養の相手かと思います。お釈迦様は供養の相手を、目蓮尊者の場合は母ではなく多くの僧侶に、阿難尊者の場合も一切の餓鬼にと言ったように、限定することはありませんでした。餓鬼とは“欲望が尽きず、欲を奪い合う存在”です。人間だれしも、いつこの餓鬼の世界に堕ちるかも分かりません。ですから、お釈迦様は分け隔てのない供養を示されたのではないでしょうか。今日、時宗の盂蘭盆会や施餓鬼会においても“六道四生三界萬霊有縁無縁ろくどうししょうさんがいばんれいうえんむえんの精霊”と言った偈文ですべての精霊に回向します。ご先祖様だけでなく、ありとあらゆる存在へ供養の心を向けて、さらに自分の心に巣くう餓鬼にも目を向ける、そういった心持ちが大事なのかと思います。

科学技術の発展した現代社会では、「死者供養」、「先祖供養」、「餓鬼」と言った言葉は受け入れがたいものかもしれません。しかし、発達により競争が激化した社会は、“欲を奪い合う餓鬼”の大好物であることも忘れてはならないのです。

合掌

「福田寺だより」8月 63号

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

7月のお便り

 

“祇園の守護神”

記録的な梅雨入りの遅れ、令和初の台風というニュースがあり、今後の気象予報も気になるところです。

さて、これからの季節はお祭り、京都では特に祇園祭の季節というイメージが強いのではない でしょうか。祇園祭は八坂神社の祭礼として知られ、9世紀より続く日本を代表するお祭りです。 祇園という名称はもともと神仏習合の時代に八坂神社が祇園社と呼ばれていたことによります。もっとも 、7 世紀の創建より、明治の神仏分離までの長きにわたり、仏教の守護神である牛頭天王を祀っていたことは特筆すべきことかと思います。牛頭天王が守護する場所が祇園精舎だったので、八坂神社は祇園社と呼ばれていたというわけです。現在中心としてお祀りされているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)ですが、実は日本では古来、牛頭天王と素戔嗚尊は同神であると考
えられていました。
この祇園精舎は『平家物語』の冒頭に出てくる言葉としてご存知ではないでしょうか。

“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。・・・”

正式名称は「祇樹給孤独園精舎」といい、お釈迦様在世の頃、インドに実際に存在しました。 精舎とは寺院の原形のようなもので、お釈迦様をはじめとする修行僧が雨季などに籠る道場とし て使用されました。お釈迦様はインドの大地を歩き回って教えを説かれたことは知られています が、雨季に多く現れる虫や植物を間違って踏み殺すことがないように、この期間だけは建物内で修行するということがありました。これを「雨安居」と呼びます。
「祇樹給孤独園精舎」の名前の由来は、「ジェータ(祇陀)太子」と「スダッタ」という 2 人の人物です。スダッタは身寄りのない人々に施しをする長者という意味で「給孤独の長者」と呼 ばれていました。ある時、スダッタはお釈迦様の教団の雨安居に必要な精舎を寄進するために、 ジェータ太子の所有する土地を譲ってもらおうと願い出ました。しかし、ジェータ太子は譲る気 がなかったので、「もし黄金を土地に敷き詰められたら譲ってもよい」と戯れで言いました。す るとスダッタは私財をなげうち、本当に黄金を敷き詰め始めたのです。広大な土地のあとわずかというところで黄金は尽きてしまいますが、熱意に心打たれたジェータ太子は土地を譲り、自ら も樹木を寄進するなど精舎の建設を援助したということです。ついに、この精舎は2人の名前を 冠し、ジェータの樹林(祇樹)と、スダッタ(給孤独長者)の僧園、「祇樹給孤独園精舎」とし てお釈迦様に寄進されました。

現在、インドに当時の祇園精舎の姿はありませんが、歴史公園として保存され、仏塔や僧院なども建築されています。日本にも祇園神社や祇園寺が全国各地にあり、また地名としても祇園の名は多く残っています。
2500年前の精舎建設をめぐる出来事が、遠い日本の祭礼と繋がっていて、今も多くの人々に親しまれていることは何とも不思議なことではないでしょうか。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)