12月のお便り

今月の言葉

「一向に称名し  善悪を説かず  善悪を行ぜず」

『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:私たちは、比較でモノの価値をはかる相対の世界に生きているので、心は常に定まっておらず、善悪・正しさの判断もままならないものである。よって人の行為について善であるとか悪であるか決めつけるのではなく、仏様の教えに照らし合わせ、自らを省みることが 肝要である。】

「福田寺だより」平成30年12月第55号(PDFファイル)

 

“中道の姿”

一年はあっという間で、年の瀬もいよいよ押し迫ってきました。皆様がよいお年を迎えられるよう祈念申し上げます。

さて、お釈迦様の誕生日を祝う 4 月 8 日の「降誕会ごうたんえ」、ご命日を偲ぶ2 月 15 日の「涅槃会」を以前ご紹介しましたが、仏教の三大法会としてはもう一つ「成道会じょうどうえ」という行事があります。毎年 12 月 8 日がその日に当たり、「成道」=お釈迦様がさとりを開かれた日を記念して法要が行われます。

お釈迦様がさとりを得られたのは 35 歳のとき、6年間に及ぶ苦行(断食など)が正しい道ではないと気づかれたのがきっかけでした。苦行を離れ静かに菩提樹の下で瞑想にふけり、ついに世界の真理をさとら れました。

さとりの内容は諸説ありますが、「縁起」と「中道」がその核心であるといえます。縁起とは“すべての存在は互いに影響しあっている”、 “物事の結果には必ず原因がある”という真理です。
中道とは一般的に“縁起を知り、物事の両極端に偏らない”と解され、 「八正道」という 8 つの正しい方法を実践すれば中道を体現できると されています。しかし実際のところ、私たちは日常生活に追われ、煩悩 に振り回され八正道どころではありません。出家であれ在家であれ仏教徒には様々な生活規範がありますが、それを守りようがないのも現実です。また、そのような私たちに“正しさ”を判断することができるでしょうか。一遍上人は「善悪は説かず」とおっしゃいます。そうとは言え、 仏法をないがしろにして利己主義に陥れば、共生の道は閉ざされ、人類の存続すら危ういことは明白です。

だからこそ「中道」が大事なのだと思います。それは仏様の教えを実践しようと心に留めておくことです。実際には先ほど申したように、努力をしても教えを完璧に守ることは難しいでしょう。厳格に守ることに固執するのではなく、「仏様の世界」と「世俗の世界」、この二つの世界は違うけれどもかけ離れていないのだと理解し、生きる姿が中道ではないかと思います。

有難いことに、折に触れてお檀家様から「毎月、お便りを楽しみにしています」「月に1度仏教に触れることができて勉強になる」とおっしゃっていただけます。何よりも励ましになりますし、その仏教に臨む姿こそが「中道」を実践されているようにも感じられます。

合掌

11月のお便り

今月の言葉

もっぱら慈悲心をおこして 他人のうれいを忘れることなかれ」

一遍上人『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:慈悲の心(他人の苦しみを和らげ、福楽を与える心)を常に持ちなさい。他人の悲哀の気持ちを理解して、忘れてはならない。】

「福田寺だより」平成30年11月 第54号(PDFファイル)

 

“お砂持ち”

 

朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。もう冬の足音が聞こえているようです。

先月14日に福井県敦賀市氣比けひ神宮において時宗青年会主催の「全国大会」という法要が行われました。本法要は2年に一度、全国の有縁の寺社で営まれ、総本山遊行寺より遊行ゆぎょう上人一行を拝請します。私も全国青年会の現執行部に所属しており、迎える側として氣比神宮を訪れました。

全国大会の様子

今回氣比神宮が大会の会場に選ばれたのには理由があります。それは二祖真教上人七百年御遠忌との関連です。真教上人は福井県を重要な布教の地として何度も訪問されており、この氣比神宮では、人々を難渋させていたぬかるんだ参道を、自ら土砂を運び整備されたという逸話が残っています。現在でも遊行上人が法灯を相続されるとき必ず氣比神宮で「遊行のお砂持ち」の神事が行われることからもその関係の深さがうかがえます。

この氣比神宮には松尾芭蕉も訪れており、真教上人の逸話を聞き次の和歌を残しています。

月清し 遊行のもてる 砂の上

(遊行上人が運んだという砂に月明かりがきらめき清々しい)

 真教上人をはじめとする時衆が砂浜を運び整備し始めると、周囲の人々もこぞって集まり、身分・職業を問わずこの一大事業に臨んだと『遊行上人縁起絵』には書かれています。これは現代でいうところのボランティア活動といえるかもしれません。しかも、整地だけではなく神社内を清掃し、砂や玉石を敷き詰めたことで境内が鏡のように輝いたと伝えられています。芭蕉が詠んだ「清し」という言葉は「清々しく美しい」という意味のほかに「神聖である」という意味もあります。

聖地を守った人々の努力の結晶は、700年以上たった今もなお輝いているのです。

合掌

(副住職:髙垣浩然)

遊行上人一行

10月のお便り

今月の言葉

「熊野の本地ほんじ弥陀みだなり。和光同塵わこうどうじんして念仏をすゝめたまはんが為に神と現じ給ふなり。」

一遍上人『一遍上人語録』

 

“神様仏様”

 

紅葉が待ち遠しい季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

10月は神無月かんなづきともいい、出雲大社に全国の神々が集うので神様のいない(無)月であると広く知られています。ただし、この語源は俗説のようで、水無月みなづき(6月)=水の月と同様に、神無月は神の月(神事が多い)を表しているというのが有力だそうです。

さて、神様と仏様は、それぞれ神社とお寺に祀られていますが、必ずしも関係がないとは言えません。神々の中には仏教の中に取り込まれ、仏教の守護神として存在するものもあります。名前の後に「天」がつく、例えば帝釈たいしゃく天、毘沙門びしゃもん天、韋駄いだ天、弁財天などを挙げることができ、多くはインドの神々です。また、本地垂迹ほんじすいじゃくという考え方から、日本の神々は仏様の化身(権現ごんげん)であるとも捉えられました。仏様の姿のままでは人々に近づきがたいので、人の姿に近い神様の姿で仮に現れ、仏法を広めると考えられたからです。熊野権現や八幡神は阿弥陀如来の化身であるといわれます。

一遍上人も全国を遊行される中で、各地の神社にも参詣されています。そして、一遍上人が成道された地は熊野本宮大社証誠しょうじょう殿であり、きっかけは熊野権現の神託によるものでした。この証誠殿の「証誠」とは阿弥陀経に出てくる言葉で「間違いないと証明する」という意味があります。阿弥陀経では東南西北上下の世界の数えきれない仏様が、阿弥陀仏の教え、お念仏の偉大さを讃嘆し証明されるのです。

ですから、一遍上人も仏様、神様と分け隔てして考えることはなく、本地垂迹として、すべての神々が阿弥陀仏の教えを広めてくださっている存在だと考え、尊崇の念をもたれていたのです。

念仏の教えは無碍むげ(何ものも障りにはならない)であることが改めて感じられます。

合掌

(副住職:髙垣浩然)

彼岸施餓鬼会を厳修しました

昨日、午後2時より秋季彼岸施餓鬼会を厳修いたしました。

雨も午前中には上がり、多くの方々にご参拝いただくことができました。

日頃よりご結縁の皆様に厚く御礼申し上げます。

法要後には京都国立博物館での特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」、並びに当ホームページ開設のご案内をさせていただきました。

特別展に関してはまた詳細をご案内できればと思います。

 

ホームページを開設しました

この度、福田寺の公式ホームページを開設いたしました。

当山の歴史や墓地、また「時宗」についてご紹介させていただきます。

今後、内容の充実を図るとともに、行事情報なども随時更新し、皆様に有意義に見ていただけるホームページを目指してまいりますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。