カテゴリー: 念仏の心

3月のお便り

今月の言葉

努力つとめてまよいひるがえして、本家にかえ

善導大師ぜんどうだいし(『往生礼讃おうじょうらいさん』)

 

【解釈:“自分自身や事物に執着する心”、“あれこれと人や物を比べる差別の心”といった迷いの心をひるがえして、自身の本来の心である「清浄しょうじょうな心」に還りなさい。】

「福田寺だより」平成31年3月第58号(PDFファイル)

 

“本来の心”

厳しい寒さも随分と和らいできました。鳥のさえずりが春の到来を知らせているかのようです。今年の春のお彼岸は3月18日~24日(21日が中日)までの期間です。まもなく新年度、お彼岸は“仏教実践習慣”という意味合いもあり、自らを見つめ直す良い機会かもしれません。

唐の善導大師の『往生礼讃』に「努力めて迷を翻して、本家に還れ」という一節があります。ここでいう迷いとは、“自分自身や事物に執着する心”、“あれこれと人や物を比べる差別の心”のことです。このような迷いの心をひるがえして、自身の本来の心である「清浄な心」に還るようにと説かれたのです。

仏教では私たちには等しく仏の種が植わっており、心の根源は清浄であるとされています。しかし、私たちの迷える心をもって、私たちの本来の心、清浄心に気づくことは果たしてできるのでしょうか。凡夫である私たちには叶うものではありません。

そこで善導大師や宗祖一遍上人が勧められているのが称名念仏です。名号みょうごう「南無阿弥陀仏」という絶対的な存在に心身をお任せ、本来の心をる道を説かれました。名号とは物事の真理を映し出す“鏡”のようなものだからです。

この名号の姿を一遍上人は「水が水を飲み、火が火を焼くようであり、また、松は松、竹は竹であるように、他の何物にもとらわれず、それ自身がそれであるという在り方で、生も死もない」と表現されています。阿弥陀仏の本願に帰依さえすれば、生死しょうじの海にさまよう私たちも、生死のない自己本来の在り方に帰ることができるのです。

さて、少し小難しくなったので詩を一つ引用させていただきます。

「アナタの主人公はアナタなんだよなあ」 (相田みつを)

自分や他者をありのままに見ることが重要であると気づかせてくれる詩であると思います。お念仏、そして先祖様に改めて感謝し、スッとした気持ちで新年度を迎えることができれば、最上のお彼岸ではないでしょうか。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日11時30分…副住職結婚式

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

2月のお便り

今月の言葉

光明はあまねく十方世界の念仏の衆生を照らし摂取せっしゅして捨てたまはず

摂益文しょうやくもん(『観無量寿経』)

 

【経文解釈:「南無阿弥陀仏」を称える人がいれば、そこに阿弥陀仏の光明が届かないということはありません。むしろ阿弥陀仏の光明は、たった今も私たちを照らしていることに気づき、その歓びの中に生きるのが念仏者でありましょう。】

「福田寺だより」平成31年2月第57号(PDFファイル)

 

“法然上人追慕”

春の背中が見えてきたとはいえ、もうしばらく寒い日が続きそうです。インフルエンザも猛威を振るっていますので体調管理の徹底を心掛けたいものです。

さて、先月24日は恒例の「法然上人追慕念仏行脚」に参加しました。夕刻に太秦西光寺を出発し、2か寺に立ち寄った後、長岡京光明寺(西山浄土宗総本山)にて追慕法要を行いました。浄土宗西山三派、浄土宗、そして時宗の5教団の僧侶が集まり、一般参加者を含め約150名を超える行列が約16キロ、5時間半の行程を満行しました。普段交流の少ない他の念仏宗派の方々、檀信徒の方とお会いでき、脈々と受け継がれる法門の有難さを改めて感じました。ただ、運動不足がたたって体はボロボロでしたが…。

そもそも追慕念仏行脚は「嘉禄の法難」という事件を契機にしています。嘉禄三年(1227年)、念仏門の流行を快く思わない比叡山の衆徒が、東山に埋葬されていた法然上人のご遺骸を掘り起こし鴨川に流してしまう計画を立てました。法然上人のお弟子たちは、先んじて法然上人の石棺を持ち出し、二尊院(嵯峨)、そして西光寺(太秦)、最終的に光明寺(長岡京粟生)へと運び、荼毘に付して埋葬されました。この事件に因み、毎年1月24日のお逮夜(御命日の前夜)に法然上人追慕の為に念仏行脚を営むようになったということです。

さて法然上人と時衆の宗祖一遍上人は時代が100年ほど違うので直接関係があったわけではありません。しかし、一遍上人の教えは間違いなく法然上人の教えからの展開です。一遍上人の師匠は聖達上人であり、その聖達上人の師匠は証空上人(西山上人)だからです。この証空上人こそ法然上人一番の高弟であり、現在の浄土宗西山派の派祖でもあります。証空上人の教えは「他力」をより強調する特徴があります。念仏の教えのみが往生の道であることを示され、領解りょうげ(疑いの全くない信心を得ること)の重要性を説かれました。そして、一遍上人はさらなる展開として、信心を超越した「南無阿弥陀仏」の六字名号への帰依を説かれたのです。

少しややこしくはありますが、京都には永観堂、誓願寺をはじめ、浄土宗西山派の寺院も多いので、寺院に参られる際に注目されてはいかがでしょうか。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日11時30分…副住職結婚式

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

1月のお便り

今月の言葉

「それ生死に七種の用心あり」

『一遍上人語録』

 

【一遍上人のおこころ:生と死についての心構えには七種類ある。一息生死から一期生死までのそれである】

「福田寺だより」平成31年1月第56号(PDFファイル)

 

“一息生死”

明けましておめでとうございます。お年始のご挨拶を申し上げますとともに、謹んで檀信徒の皆様の平安を御祈念いたします。新元号に変わるこの一年は、何か新たなスタートを切るのにふさわしい予感がします。

私も恐縮ですが、この度良縁に結ばれまして、結婚式を4月13日に執り行うこととなりました。まだお伝えできていないお檀家様もいらっしゃいますので、改めてこのお便りでご報告させていただきます。

 

さて、新年が始まったわけですが、12月31日には一年の終わりが来ます。ずいぶんと気が早い話ですがご容赦ください。当然、一年であれ、一か月であれ、期間を区切れば必ず始まりと終わりがあります。一遍上人は七種の始まりと終わり(生と死)を説かれました。つまり生と死についての心構えです。

一期いちご(一生)」「一年」「一月ひとつき」「一日」「一時いっとき」「一念」「一息」というように期間を区切り、「一息」には吐く息(生)、吸う息(死)があり、「一念」は念仏の始めと終わりをそれぞれ生死であると考えます。だんだん期間が伸びていき最後は「一生」へと行きつきます。「一日一生」でもあり、「一年一生」でもあります。一遍上人は生と死というものを「一期」に限らず、刻々と過ぎる“今”その瞬間に感じなければならないとおっしゃられたのです。長く感じる生涯も、“今”が連続してやってくる、だからこそ今というひと時を、念仏を通して懸命に過ごすことが大切なのです。臨終間際の念仏ではなく、日ごろからの“平生へいぜい念仏”を強調されているのは、この心構えからも理解できます。

『阿弥陀経』には「聞説阿弥陀仏もんぜつあみだぶつ 執持名号しゅうじみょうごう 若一日にゃくいちにち 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不乱」とあり、一日ないし七日間、念仏を称えれば、ご来迎があり極楽往生が叶うとあります。この七日間を先ほどの七種の生死と考えると、お経も身近に考えていただけるのではないでしょうか。

本年も檀信徒の皆様とともに、念仏への感謝をもって過ごしたいと存じます。

合掌

 

年間行事予定

・1月13日…総代会

・3月22日14時…春季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

4月13日11時30分…副住職結婚式

4月13日~6月9日…御遠忌特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」(京都国立博物館)

↑当山の御本尊阿弥陀如来像が5月14日~6月9日まで出陳されます!

5月26~28日…総本山団体参拝(京都の時宗寺院合同/ご希望の方に詳細をご案内します)

9月22日14時…秋季彼岸施餓鬼法要(加薬ご飯弁当のお振舞いをします)

10月のお便り

今月の言葉

「熊野の本地ほんじ弥陀みだなり。和光同塵わこうどうじんして念仏をすゝめたまはんが為に神と現じ給ふなり。」

一遍上人『一遍上人語録』

 

“神様仏様”

 

紅葉が待ち遠しい季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

10月は神無月かんなづきともいい、出雲大社に全国の神々が集うので神様のいない(無)月であると広く知られています。ただし、この語源は俗説のようで、水無月みなづき(6月)=水の月と同様に、神無月は神の月(神事が多い)を表しているというのが有力だそうです。

さて、神様と仏様は、それぞれ神社とお寺に祀られていますが、必ずしも関係がないとは言えません。神々の中には仏教の中に取り込まれ、仏教の守護神として存在するものもあります。名前の後に「天」がつく、例えば帝釈たいしゃく天、毘沙門びしゃもん天、韋駄いだ天、弁財天などを挙げることができ、多くはインドの神々です。また、本地垂迹ほんじすいじゃくという考え方から、日本の神々は仏様の化身(権現ごんげん)であるとも捉えられました。仏様の姿のままでは人々に近づきがたいので、人の姿に近い神様の姿で仮に現れ、仏法を広めると考えられたからです。熊野権現や八幡神は阿弥陀如来の化身であるといわれます。

一遍上人も全国を遊行される中で、各地の神社にも参詣されています。そして、一遍上人が成道された地は熊野本宮大社証誠しょうじょう殿であり、きっかけは熊野権現の神託によるものでした。この証誠殿の「証誠」とは阿弥陀経に出てくる言葉で「間違いないと証明する」という意味があります。阿弥陀経では東南西北上下の世界の数えきれない仏様が、阿弥陀仏の教え、お念仏の偉大さを讃嘆し証明されるのです。

ですから、一遍上人も仏様、神様と分け隔てして考えることはなく、本地垂迹として、すべての神々が阿弥陀仏の教えを広めてくださっている存在だと考え、尊崇の念をもたれていたのです。

念仏の教えは無碍むげ(何ものも障りにはならない)であることが改めて感じられます。

合掌

(副住職:髙垣浩然)